王公族

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王公族(おうこうぞく)とは戦前の日本に存在した身分。韓国併合後に大韓帝国の旧皇族を対象に封じられた。

概要[編集]

1910年に日本と大韓帝国の間に韓国併合条約が結ばれ、大韓帝国は日本の植民地となり消滅した。この時に韓国の皇族は日本の貴族制度の中に組み込まれることとなった。このとき問題になったのが韓国の皇族の尊称である。当初は日本側が西洋の制度に倣って「大公」(Grand duke)の尊称を与えることを提案したが、韓国側は「王」の尊称を残すことを希望した。しかし日本側が「王」の尊称が「朝鮮王」と解釈されて独立運動に利用されることを警戒し、かつ皇族の「」とも混同するため、折衷案として大韓皇室の嫡流は「李王」の尊称とし、傍流の皇族は日本側の提案通り「公」の尊称とすることで決着した。

併合後、制度上は華族以上皇族以下の「準皇族」として扱われたが、皇族との間で婚姻が行われ[1]一般の宮家と比較して破格の皇室予算を割り当てられるなど皇族と同じ扱いを受けていた。また、一般民衆からは「宮さま」と呼ばれ、各地の行啓では皇族同様に歓迎を受けていた。1945年、日本が太平洋戦争に敗れると王公族制度は廃止された。

尊称[編集]

「李王家」、「○○公家」の当主はそれぞれ「李王」、「公」の号を継承する形式をとっていた。皇族が「天皇」、「○○宮」の号を継承することを思い浮かべれば想像しやすい。ただし李王家には「李王」の号とは別に宮号を付し、例えば李王家の当主李垠は「昌徳宮李王垠」と称し、[2]皇族が「○○宮○○」と称する形に合わせていた。なお、これらの宮号は京城にあった韓国皇室の宮殿の名から取っている。

併合時の王公家一覧[編集]

戦後[編集]

王公族制度は廃止後、一般の在日庶民と同じ扱いになった。しかし1960年頃まで、国外亡命をしたイタリア王族と同様、王政復古を警戒した大韓民国政府に帰国を拒否され、日本など韓国外で一般市民として生活せざるを得ず、同時期に臣籍降下した旧皇族同様に生活に苦しむことも多かったという。

韓国政府が王公族関係者の入国を認めた後、ソウルで社団法人全州李氏大同宗約院が結成され、旧李王家の親睦を図り、宗家の継承者決定に関わっている。現在の宗家当主は高宗の曾孫で李堈公家の血統の李源である。

李堈公家の他の子孫としては、陸軍大学校に在籍し、陸軍中佐となって戦後日本国籍を取得した桃山虔一がいる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 多くの場合政略結婚とみなされるが必ずしも政府の思惑のみによって決められた縁談ではない。王公家の皇族並の家格を求めた皇族側と家の存続を確かなものとするため皇族との血の結びつきを求めた王公家側の思惑が一致したのである。
  2. 李垠の李王家継承の際、昌徳宮の号は先代の李拓個人に与えられたものであるとして尊号を「李垠王殿下」とするべきという意見もあったが宮内省に容れられなかった。

参考文献[編集]


爵位 公爵 - 侯爵 - 伯爵 - 子爵 - 男爵
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