温恢
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温 恢(おん かい、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の武将・政治家。字は曼基(まんき)[1][2]。父は温恕。子は温生、温恭。孫は温羨、温憺。曽孫は温祗、温允、温祐、温嶠。玄孫は温放之、温式之。
生涯[編集]
并州太原郡祁県の出身[2]。15歳の時に父が死去したため郷里に戻り、その際に財産を一族に分与したため評判になった[2]。孝廉に推挙されて廩丘の県長をはじめとして各地の県令や相を歴任して治績を挙げ、中央に招聘されて曹操の信任を受けて丞相主簿に任命される[1][2]。後に揚州刺史に任命され、曹操から蒋済を補佐に付けられ、さらに合肥に駐屯していた張遼や楽進に対しても曹操から温恢と相談するように命じられた[2]。魏の建国後には曹丕文帝から召還されて侍中に任命され、さらに魏郡太守、数年後に涼州刺史、持節領護羌校尉に昇進するが、赴任途中で病気に倒れて45歳で死去した[2]。その死は多くの人から惜しまれた[1]。