海部騒動

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海部騒動(かいふそうどう)とは、江戸時代前期の寛永年間から正保年間にかけて阿波国徳島藩で発生した御家騒動である。別名を益田豊後事件(ましだぶんごじけん)という。御家騒動であるが藩主の座をめぐる後継者争いではなく、家臣が主家から独立して自ら藩主になろうと画策したという江戸時代では珍しい形の騒動であった。

概要[編集]

益田長行という男[編集]

この騒動の中心人物は、益田長行という男である。受領名が豊後守であることから、益田豊後と言われることが多い。

この益田は蜂須賀至鎮に重用されて蜂須賀氏と姻戚関係を結び、至鎮に従って関ヶ原の戦い大坂の陣福島正則改易などでいずれも功績を挙げたことから、至鎮より海部城番の地位と5500石の知行を与えられていた。益田は江戸家老の地位にもあり、幕府との取次を務めて幕閣とも親交を持つなど、蜂須賀氏第一の家臣として権勢を恣にしていた。

しかし、益田を信任して重用していた至鎮が早世し、幼い息子の蜂須賀忠英が後継者になると事態が一変する。藩政は幼児である忠英が見ることは不可能であり、存命していた至鎮の父・蜂須賀家政が後見人となって藩政を取り仕切るようになった。家政は藩政の地盤を強固にするため、これまでの旧門閥の解体、並びに地方支配を強固にするための官僚機構の整備を進めた。その第一段階として元和9年(1623年)に御国奉行制度を設置したことである。

独立を画策する益田[編集]

家政は第2段階として、寛永8年(1631年)に稲田氏淡路国洲本城代に任命した。稲田家は益田家と並ぶ蜂須賀家の重鎮であったが、これによって徳島藩の中枢から遠ざけられ、さらに淡路統治も徳島藩から直接派遣する洲本仕置によって監視されるようになり、稲田家の権力は抑制されるようになった。

このような稲田家の藩政中枢からの排除を見た益田は、このままでは自分もどこか遠方に飛ばされて排除されると考え、自らの所領である海部郡を蜂須賀家から分離独立させ、自らが藩主として海部藩を立藩しようと画策した。そのため、江戸家老の地位を利用して幕閣に盛んに運動した。だが、独立するためには幕閣に莫大な資金、いわゆる賄賂をばらまかねばならない。『翁物語』という俗書では、「益田はその資金調達に藩の所有林を無断で伐採し、その良材を江戸の品川に運送して販売しようとした」とあるが、こんな大掛かりな資金調達事業が家政ら徳島藩に露見しないほうがおかしかった。また、伐採が余りに厳しかったので百姓から藩に告発が相次いだといわれる。これを知った家政は、御国奉行の太田金左衛門に海部郡の監察を命じ、その監察の結果として益田の息子の外記が差配して、貧民の救恤を大義名分にして檜や槙、樅、栂などの木材を伐採して江戸に密輸していたことも明らかになったという。

寛永10年(1633年)、家政は益田長行・外記父子を罪ありと咎めた上で藩内における全ての公職を剝奪し、その上で長行を大栗山(名西郡神山町)に幽閉し、外記を海部山中に押し込めた。さらに長行の孫である式部も逮捕して仁宇山中に押し込め、それぞれ厳重に監視させた。

再燃・決着[編集]

益田一族の幽閉により、この騒動は一応は一件落着した。だが、寛永15年(1638年)に家政が死去し、忠英が事実上の親政を開始すると状況が一変する。

正保2年(1645年)、長行の義弟である阿彦左馬之丞が幕府に対し、蜂須賀家が武家諸法度に違反していると告発した。告発の内容は、幕府が発令している大船建造の禁に違反して大船を建造していること、禁教令を無視してキリシタンを藩内で放置しているというものであった。当時、幕府は徳川家光の下で外様大名を徹底的に取り潰す武断政治を続けており、この告発が事実ならば蜂須賀家の改易もあり得る一大事であった。ましてや告発者は、幕閣と繋がりがあった徳島藩の元江戸家老の義弟である。

幕府はこの訴えを受理し、正保3年(1646年)に評定所で当時の徳島藩仕置の立場にあった長谷川貞恒と長行を対決させることにした。『蜂須賀家記』によると、対決の場に現れた長谷川は堂々としており、「大船を造りしこと、切支丹宗門その他十数条、分疏明弁滞りなく、ついに豊後語塞り答えること能はず、豊後は阿波守の処置に任す旨の上意申し渡さる。依て各藩邸の門開かれしとなり」と書かれていることから、対決は長谷川の堂々とした弁明により、長行は答えることができず、幕府は長行の処置を忠英に任せる旨を申し渡したのである。

忠英は益田家を改易することに決めた。『阿淡年表秘録』によると、長行は江戸から国許の阿波国に送られる途中の正保3年(1646年)2月に病死した。嫡子の外記、孫の式部は5月2日に徳島城下の大安寺において処刑。長行の妻は稲田氏に預かりとなった(のちに中村氏に預け替えとされた)。また、告発した阿彦左馬之丞は日光御門主に預けられ、後に水野氏の家臣になっている。

幕府がこの訴えで蜂須賀家に有利な裁断を下した理由として、至鎮の正室で忠英の生母である敬台院が存命していたことも理由として挙げられると推測される。敬台院は徳川家康養女であり、この騒動が発生した時はまだ存命しており、彼女が幕府に働きかけた可能性が指摘されている。

益田家の改易により、蜂須賀家は改易の危機を脱し、以後は藩主の権力を強化して藩政を盤石に固めてゆくことになる。