河野広躰
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河野 広躰 こうの ひろみ | |||||||||||||||||||
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河野 広躰(こうの ひろみ)は、明治時代前期の政治活動家。明治時代中期以降は実業家に転身した。
略歴[編集]
父が早くに没したため、伯父に育てられ、その影響を強く受けた。明治12年(1879年)に高知県の立志社で学び、東京に帰京してからは自由民権運動で伯父と共に活躍した[1]。
明治15年(1882年)の福島事件では関与を疑われるも無罪となる。しかし明治17年(1884年)の加波山事件で連座、強盗及び警官の殺傷に関与したとして逮捕された。しかし、逮捕時で19歳だったことから未成年であるとして無期徒刑になり、明治27年(1894年)に出獄。その後は移民会社を起こし、晩年まで植民事業に取り組んだ[1]。
昭和16年(1941年)1月24日に死去[1]。75歳没。
Wikipediaでは明治時代の人物で執筆の協力依頼[1]が出されているが、「河野広体」となっており、全く存在しない人物の執筆を依頼している。まさにWikipediaの信頼性をよく物語る好例であり、お笑い百科事典と言えるであろう(笑)。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]