河島博
河島 博(かわしま ひろし、昭和5年(1930年12月5日 - 平成19年(2007年)4月6日)は、日本の経営者。日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の第5代社長。株式会社ダイエーの元副社長、元副会長。リッカーの元社長。
経歴[編集]
1930年12月5日 、静岡県浜松市に生まれる。父は病院事務員の河島喜一、母は看護師のはま、中流家庭に育った。静岡県立浜松第二中学校(現静岡県立浜松西高等学校・中等部、旧制浜松二中)に1944年に入学し、1948年(昭和23年)に卒業後、1951年3月、名古屋経済専門学校(現名古屋大学経済学部)を卒業した。河島は親に経済的負担をかけないため、家庭教師、駐留軍将校のルームボーイ、選挙の手伝い、競馬場の警備などアルバイトと奨学金で生活費と学費を得ていた。1951年4月、日本楽器製造に入社した。当時の日本楽器は河島博、長岡明男を含めた学卒者3名を採用した。 半年間の工場研修のあと、本社経理部で1年間過ごした後、東京支店小売課・レコードラジオ係に配属された。1階と中2階の女性社員からレコード品番を連絡されると、それを3階の倉庫から探し出し、届ける仕事である。1年後からは営業課でピアノの販売を担当した。上司の金原善徳(後にヤマハ取締役)によれば、よく本を読み、熱心に仕事し、現場から学ぼうとする姿勢があったという。ピアノ販売では店売りと外売を担当し、外売ではバイクに乗り、三多摩と京浜地区の教育委員会やPTA会長を訪問し、学校へのピアノ予算の情報収集を行った。さらに東京芸術大学や国立音楽大学などの音楽大学の教授や教え子を訪問した。 1955年(昭和30年)、河島博は本社の女性事務員タミ子と結婚した。
1956年(昭和31年)、25歳の河島博は小売課長として、大阪支店に送り込まれた。関西在住の音楽家として金沢孝次郎、横井和子、辻吉之助、朝比奈隆、辻井市太郎などの顧客と親交を深めた。小売課長の後は営業課長を務め、関西には3年間勤務した。
1959年(昭和34年)、28歳で本社営業課長に就任し、全国の6支店を統括する立場になった。その頃の日本楽器の営業ラインは「社長(川上源一)―営業担当常務(窪野忍)-業務部長(長岡明男)―営業課長(河島博)-全6支店」とシンプルであった。窪野忍は戦後ヤマハの営業基盤を築いた立役者で、河上博がビジネスの師と仰ぐ人物であった。
1965年(昭和40年)、河島は35歳で大阪支店長となり、1965年には大阪支店長のまま取締役となる。1968年(昭和43年)、河島博は川上源一社長からYIC(ヤマハ・インターナショナル・コーポレーション、現ヤマハ・コーポレーション・オブ・アメリカ)への赴任を指示された。1960年に設立されたYICは楽器と系列ノヤマハ発動機のオートバイを販売するアメリカの販売子会社である。当時、YICはベトナム戦争の影響を受け、大量の在庫を抱えて苦しんでいた。総支配人(上級副社長兼ゼネラル・マネジャー)に就任のために渡米し、オートバイの「用途開発」に着手し、250CCのオフロードバイクを開発し、またスノーモービル市場を開拓して、在庫問題を解消した。そしてピアノや管楽器の現地生産に乗り出した。 1974年になると川上社長から本社常務として戻るよう指令が届いた。その後1976年に専務を歴任し、1977年1月に46歳の若さで日本楽器製造の第5代社長に就任し、過去最高の経常利益を達成する。1980年6月、会長であった息子に跡を継がせたいと考えていたワンマン経営者の川上源一により取締役会で突然に解任された。「今日からオレが社長をやる。反対する者はいるか」と臨時役員会で川上源一会長が発議し、河島博社長の解任と源一氏の社長復帰が決定されたのである。川上源一は息子の川上浩を次期社長に据えるため、河島博を切ったと言われる。全く実績も才覚もない川上浩が課長、部長とトントン拍子に出世し、川上浩は41歳の若さで日本楽器製造株式会社の第7代社長に就任した。しかし河島博が去った後の日本楽器は長く低迷が続き、1992年2月には労働組合から進退を問われ、最終的に川上親子は日本楽器製造株式会社(ヤマハ)を追放された。
ダイエーの会長であった中内功は河島博を三顧の礼で迎え、1982年に河島はダイエーの副社長に就任した。1981年に119億円であったが、河島はダイエーの改革を進め、副社長就任後のダイエーの業績は1982年に88億円の赤字であったが、1983年には黒字となりV字回復を成功させた。ところが中内は河島中心の会社になることを恐れ、V字回復ができると用済みとなった河島は解任され、中内功は長男の中内潤を副社長に抜擢した[1]。1987年に河島は中内氏が事業家管財人をしていたリッカーの管財人社長に就任する。1989年にダイエー副会長に就任。1997年にダイエー副会長を退任。
人物[編集]
- ヤマハで河島博は「中期三ヵ年計画」の作成に当たり、「書店に並んでいるようなビジネス書を参考にして、月並みな経営計画をたてるな。あくまでも自分で考えてくれ」と言い渡した。
- 河島博は米国ヤマハで中・長期戦略に基づく徹底した現地化戦略を展開し、「現地生産」や「用途開発」モデルを創り出し、在任中の6年間で売上げを約10倍にした。
参考文献[編集]
- ↑ 加藤仁(2006)『社長の椅子が泣いている』講談社