中内功

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中内 功(なかうち いさお、1922年8月2日 - 2005年9月19日)は、日本経営者。株式会社ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。日本チェーンストア協会会長、日本経済団体連合会副会長、学校法人中内学園(流通科学大学)学園長、理事長。

経歴[編集]

1922年(大正11年)8月2日、大阪府西成郡伝法町(現・大阪市此花区伝法)に父・中内秀雄、母・リエの長男として生まれる。父親は大阪薬学専門学校(現大阪大学薬学部)を卒業した薬剤師である。1926年父秀雄は神戸市兵庫区東出町に「サカエ薬局」を開業した。1928年4月神戸市立入江尋常小学校に入学する。市役所の手続誤りで1年早く入学した。1934年旧4月、兵庫県立第三神戸中学校(現・兵庫県立長田高等学校)に入学する1939年4月、兵庫県立神戸高等商業学校に入学する。1941年、兵庫県立神戸高等商業学校(神戸商科大学の前身、現兵庫県立大学)を繰り上げ卒業する。卒業アルバムに「今は悔いず冬枯の丘駆け下る」の句を刻む。1942年3月神戸商業大学を受験するが不合格。1942年4月、神戸空襲の焼夷弾がサカエ薬局に落ちるが消し止める。1942年4月、日本綿花株式会社(現双日)に入社する。1943年、1月陸軍現役兵として広島に入営。独立重砲兵第四大隊(第14方面軍)に配属され、ソ満国境守備隊に送られ綏芬河(スイフンガ)へ赴く。1944年7月、陸軍軍曹として、山下奉文・山下兵団の所属ルソン島リンガエン湾の守備につく。1945年1月、米軍はルソン島に上陸する。日本軍敗走する。1945年6月6日、切込隊で夜襲をかけ手榴弾を浴び全身負傷。8月20日、マニラ戦時俘虜収容所の捕虜となる。11月3日、マニラ出港。11月7日、鹿児島加治木港に上陸する。現金60円、全国無賃乗車券、牛缶を支給される。門司で一丁5円の豆腐を食べる。生命をかけた戦争が豆腐わずか12丁分と知る。1946年、家業を手伝いながら三宮の闇市でブローカー商売を行う。

1948年、神戸三宮元町のガード下に「友愛薬局」を設立する。1951年8月、医薬品の現金問屋「サカエ薬局」を大阪市東区平野町に設立する1952年11月、瀬尾萬亀子と結婚する。新婚旅行は別府・阿蘇であった。1957年、神戸市長田区に大栄薬品工業株式会社(現株式会社ダイエー)を設立する。同年9月23日、大阪市千林駅前に第1号店として「主婦の店ダイエー本店大阪」を開店する。店舗面積は97平米、社員数13名、初日売上高26万円。薬品ばかりでなく, 衣料品・日用品などの取り扱いを始め, 現在のスーパーマーケットのような形態であった。安売り攻勢と牛肉特売で人気を博す。1960年、三宮店の売り場を大拡張し、旧館と新館で740坪となり日本最大のスパーマーケットとなる。関西から日本全国へ店舗網を拡げ「何でも揃う」スーパー業態を確立した。1963年7月20日、神戸市三宮に日本型総合スーパーの原型となるSSDDs(Self-Service Discount Department Store)をオープンした。九州に進出し、ナショナルチェーン化。1964年、東京、四国、岡山に進出。1967年8月、日本チェーンストア協会会長に就任する。1969年1月、『わが安売り哲学』を出版し、ベストセラーとなる。1970年、売上高1000億円を突破する。1972年、東証一部上場。同年、売上高で三越(現株式会社三越伊勢丹)を抜き、小売業売上高日本一を達成(売上高1359億円)。1975年コンビニ「ローソン」を開業した。1976年紫綬褒章を受章する。1979年神戸商工会議所副会頭に就任する。1980.2.16、ダイエー小売業で初めて年間売上高1兆円を突破。1983年8月「対米市場アクセス促進ミッション」の副団長として訪米、レーガン米大統領と懇談。 1983年から三期連続で連結赤字となり、中内功は浜松町の通称軍艦ビルの幹部会議で「もう一度、俺を男にしてくれ」と号泣し、河島博副社長(元ヤマハ社長)らに再建を託した。河島博を中心にした若手社員により業績をV字に回復させる通称「V革」を進めた。新経営陣の「V革」によってダイエーが復活すると中内功は経営権を取り戻し暴走が始まる。1988年学校法人中内学園を創設、学園長・理事長となる。リッカーミシン買収、神戸オリエンタルホテル買収、流通科学大学創立、1990年10月、新神戸オリエンタルシティ建設、1989年株式会社福岡ダイエーホークス取締役会長・オーナーに就任する。ホークス球団(現福岡ソフトバンクホークス)買収を僅か2年で進め、借入金を膨張させた。1990年12月、経済団体連合会(経団連)副会長に就任する。 1993年5月、日本チェーンストア協会会長就任。1993年11月勲一等瑞宝章を受章。1998年、ダイエーの2月期決算が経常赤字(258億円の経常赤字)となり、8月中間決算では無配に転落した。「グループ全体で2兆6000億円の有利子負債」が露見し、ダイエーの経営難が深刻化した。1999.1.20、中内は、経営責任を取り社長辞任。後任は、元味の素社長の鳥羽董・副社長となる。3.30、長男の中内潤が代表取締役副社長から代表権のない無任所の取締役へ降格した。2001年1月30日、創業者中内功が取締役退任、ファウンダーに就任する。社長には元リクルート専務の高木邦夫が就任した。2002年3月19日、経営再建中のダイエーは同社と不動産管理子会社、オレンジエステート(東京・港)に対する産業活力再生特別措置法(産業再生法)の適用を経済産業省に申請し、事実上倒産した。2002.5.30、ダイエーはプランタン銀座株を読売新聞社に売却する。2005年9月19日に神戸市立中央市民病院において死去した。

人物[編集]

  • 中内は現場主義であり、時間が取れれば頻繁に店を見に行っていた。ある時から抜き打ちで店巡回をしている。理路整然と説明できても評価せず、臨場感、事実と数字を大切にした。
  • 総入れ歯になった理由は、太平洋戦争末期にフィリピン戦線で軍曹として、最前線で戦っていたが、極度の飢餓状態になり、栄養失調で歯が抜けてしまったためである。
  • 「功(いさお)」は正しくは「工偏に刀」である。
  • 1947年4月、神戸経済大学(現神戸大学)第二課程(夜間)に入学し、新憲法を学ぶ。学費未納のため1947年10月に除籍となる。
  • ダイエーの「価格破壊」を消費者は歓迎したが、メーカーは猛反発し、中内功は松下電器産業(現パナソニック)と「30年戦争」を戦った。
  • 「良い商品をどんどん安く」をキャッチフレーズに高度成長期に急成長し「流通革命の旗手」となった。
  • ダイエーの東京本社は、大型オフィスビル「芝パークビル」(東京都港区芝公園2丁目4−1)であった。地上14階建てのオフィスビルで、1フロアの面積が約6000平方メートルと東京都心のオフィスビルでは最大級である。約140メートルの長い横幅を持つ特徴的な外観から「軍艦ビル」と呼ばれる。不動産デベロッパーの「秀和」が1982年(昭和57年)に建設したビルである。2018年2月に関西の大手企業が共同で、1500億円あまりで取得した。

参考文献[編集]

  • 恩地祥光(2013)『中内功のかばん持ち』,プレジデント社
  • 中内潤・御厨貴(2009)『中内功 中内功シリーズ第2巻』,千倉書房