池田清貧
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池田 清貧(いけだ せいとん、生没年不詳)は、戦国時代の武将。室町幕府の幕臣。後に織田氏の家臣。
生涯[編集]
摂津池田氏の一族とされるが、詳しい系譜は不明。受領名は山城守。清貧は斎号で、法名は一孤。『信長公記』においては「せいひん」とあるが、これは著者・太田牛一の誤読とされ、『宗及記』の「せいとん」が正しいとされる。諱については不詳。
将軍・足利義昭に仕えたが、武将としてより茶人としての活動が目立つ。『信長公記』では永禄12年(1569年)1月に三好三人衆が京都を攻撃してきた際、本圀寺を後詰して織田信長から賞賛されている。後に信長包囲網が形成されて信長と義昭の対立が表面化した際の元亀4年(1573年)4月27日から4月28日にかけて、室町幕府幕臣と織田氏の家臣との間で誓書の交換が行われた際、清貧も幕臣の1人として一色藤長らと共に署名している。
同年に義昭が信長によって追放されて室町幕府が滅亡した後も畿内に留まり、津田宗及の茶会に出席していることから信長から罪に問われずにそのまま織田家の家臣に列したと考えられている。なお、清貧は茶道具の名物を数多く所持しており、そのうちの瓢箪の炭入れを信長に献上したと『宗及記』にあるため、それが理由で罪に問われなかったのかもしれない。
その後の行方は不明である[1]。