楼玄
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楼 玄(ろう げん、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の武将。字は承先(しょうせん)[1][2]。子は楼拠。
生涯[編集]
豫州沛郡蘄県(現在の安徽省宿州市)の出身[1]。孫休に仕えて監農御史となり、孫皓の時代に清廉さを見込まれて[2]王蕃・万彧・郭逴と共に散騎中常侍となった[1]。会稽郡太守や大司農を経て官下鎮、禁中侯となり殿中における諸事を司った[1]。しかし非道な振る舞いの多い孫皓を歯に衣着せぬ発言で諌めたため、また楼玄の名声の高さから[2]恨みを買って、讒言により広州に配流となる[1]。さらに孫皓は張奕に楼玄を殺害する密命を下したが、張奕は楼玄に敬意を払っており殺害は実行できなかった[1]。しかし楼玄は暗殺計画を知ると潔く自殺した[1]。
『三国志演義』では孫皓を諌めて殺害された人物として名前のみが挙がっている。