楠浦昌勝
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楠浦 昌勝(くすうら まさかつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。
生涯[編集]
武田信昌の時代からの有力な側近[1]。仮名は清三[1]。官途は刑部少輔[1]。信昌・信縄の側近を務め、文亀4年(1504年)2月に向岳庵大衆から受けた訴訟で信縄と信昌双方の意向を踏まえた上で処理に当たっている[1]。同年閏3月には伊勢御師幸福大夫に神馬を送り、神宮での祈願を依頼している[2]。武田信虎の代に代わっても側近としてあり、信虎の意向を幸福大夫に伝達している[2]。永正7年(1510年)に永昌院菊隠瑞潭から書状を送られた時は清三と呼ばれているから、刑部大輔に改称したのはそれ以降と思われる[2]。信虎の代も外交で活躍し、曽根昌長と連名して足利義晴からの上洛命令について回答したりしている[2]。
若狭守虎常はその息子と思われるが、昌勝ほど活躍していない[2]。楠浦家は信虎の側室を輩出して大井信為の妻となった御亀御寮人の生母であるほど重用されていたが[1]、信虎が追放されて晴信の代に替わるに及んで勢力を落としたものと見られている[2]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6