王象

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王 象(おう しょう、? - 222年)は、後漢末期から三国時代にかけての武将政治家義伯(ぎはく)[1]

生涯[編集]

河内郡の出身[1]。最初は曹操に仕えたが、その際に楊俊から才能を認められてその推挙を受けた事が大きかったという[1]

220年に曹操の息子である文帝が即位すると、散騎侍郎散騎常侍と昇進を重ねて列侯に封じられ、さらに文帝の詔勅により『皇覧』の著述を命じられ、これに秘書監の職務を兼務しながら行なうという激務だったにも関わらず、数年で完成させたという[1]。この著作は40余りの部に及び、通算で800万余の字を数える大作である[1]

222年、文帝は楊俊を逮捕する[1]。逮捕理由はでっち上げに近いもので、真の理由はかつて楊俊が曹植を支持して曹丕と敵対した事による報復であった。楊俊からその才能を認められて世に出るきっかけを得た王象は同じ立場にあった司馬懿と共に文帝に対して血を流すほど叩頭して助命を嘆願したが文帝は受け入れず、楊俊は自殺した。王象は楊俊の死を知ると発病して間もなく死去したという[1]

三国志演義』には登場しない。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 小出『三国志武将事典』P227

参考文献[編集]