松平親良 (戦国時代)

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松平 親良(まつだいら ちかよし、天文14年(1545年) - 元和9年(1623年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将徳川家康の弟とされる人物である。

生涯[編集]

松平親良の名は『寛政重修諸家譜』の巻十四で見ることができる。「松平大黒坊甚三郎」(まつだいらだいこくぼうじんさぶろう)とあり、大黒坊の名から僧侶だった時期があった可能性もある。受領名は兵庫頭。

松平氏宗家の第4代・松平親忠の4男・親光松平清康に仕えて戦傷死し、その息子の信乗は清康、次いで松平広忠に仕えた。広忠が侍女に手を出して妊娠させた際、その侍女をそのまま信乗に妻として与えたが、その際に広忠は関兼住の御長刀を与えた上で、生まれた子を信乗の子として育てるように密命を与えられたという。生まれた子は信乗と同じ通称である甚三郎を与えられ、さらに広忠から所領を与えられて代償とされたという。

永禄7年(1564年)に信乗は死去しているが、親良がその際に西福釜松平家の家督を継承したかどうかについては不詳である。ただ、後の処遇から考えると継承していない可能性が非常に高い。

時期不明だが、家康は親良を召し出して家臣の列に加えたとも、親良から家康に対して名乗り出て家臣の列に加えてくれるように嘆願したとも言われている。天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東太守になると、家康は親良に対して所領を与えようとしたが、親良はなぜか辞退している。そればかりか本田正家婿養子になっている。正家は武蔵国葛西に800貫を知行していた後北条氏の家臣で、小田原征伐後に家康に仕えて旧領から450石を与えられたという。後に徳川秀忠からさらに100石を加増されて550石になったが、西福釜松平家は三河国に5村の所領、さらに親良の出生と同時にさらに加増を受けているため、たった550石(入婿時は450石)の本田家を継承する理由そのものが不可解である。

後に親良は本田正家の家督と所領を継承して葛西に住み、家康の死から7年後に79歳の長寿で没したという。