最上義光物語

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最上義光物語(もがみよしあきものがたり)とは、戦国時代史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は氏名不詳だが、最上氏に仕えた旧臣であるとされている。奥書には「寛永11年(1634年)暮下旬案之」とあるため、寛永11年(1634年)秋の成立であることがわかる。

この著の序によると、著者は最上義光最上家親最上義俊の3代に仕えたが、義俊の時代に最上氏が改易となり、近江国で改めて1万石を与えられるも、寛永8年(1631年)11月に病死して、著者は浪人となる。著者は武蔵国葛西の知人を頼りに一族と共に流れ、そこで余生を過ごしていたが、その中で会津の浪人と出会って「没落した主家の功績を子孫の形見として残すように」と勧められて、老病の身であるにも関わらず執筆したという。つまり、この著書は義光に仕えた家臣が自分の記憶や見聞した昔話を書き集めたもので、軍記ではあるものの信頼性は高いと考えられる。著者は巻末で「特に義光1代については大方集めたつもりである」と自信をもって述べている。そして義光没後の2代については「天下一統の折のことであったため、さして紙面に載せるべきことはない」と語っている。だが、最上騒動で最上氏が改易されたことについては「ここに記し置きたかった」とまるで強い怨念でも含むように吐露している。

別称は『最上記』(もがみき)、『最上軍記』(もがみぐんき)、『最上義光記』(もがみよしあきき)、『義光物語』(よしあきものがたり)、『最上物語』(もがみものがたり)、『義光記』(よしあきき)、『最上家実記』(もがみけじっき)、『義光物語案』(よしあきものがたりあん)、『山形軍記』(やまがたぐんき)など多数。

内容[編集]

最上義光の1代記で、義光の幼少期から出羽国の大大名として拡大してゆく1代記である。上下の全2巻。

  • 上巻 - 最上氏の先祖が清和源氏斯波兼頼から始まり、その11代目の子孫である義光を紹介する形が取られている。義光の盗賊退治が描かれている。また、義光が父・義守が偏愛した弟・義時と争い勝利したこと、出羽を制圧してゆく過程が描かれている。最終的には庄内地方をめぐり、上杉景勝本庄繁長らと十五里原の戦いで敗れたところまでが描かれている。
  • 下巻 - 豊臣秀吉の死の直後から始まっている。つまり、秀吉時代の小田原征伐における義光の参加、奥羽仕置などについては全く描かれていない。秀吉没後の豊臣政権内の混乱の中で、石田三成上杉景勝が示し合わせて謀反を企てたことになっており、景勝は隣国を味方にするため、義光に使者を送って軍資金を送り、義光はこれを受けた振りをしてその実、徳川家康に一連の事情を注進した。つまり、義光は景勝を騙したわけであるが、これについては「ある家臣の話として」、かつて豊臣秀次切腹事件で愛娘である駒姫が秀吉に処刑されていること、家康との関係は織田信長に送ったのと同じ名馬を献上して懇意にしており、さらに家親を近習として差し出しているので裏切ることはあり得ないことなどを挙げて、義光を弁護している。この後、会津征伐の途上で三成の挙兵を知った家康は、義光の同意を受けずに西上を始めたが、このことについて義光は家康を恨まず、あくまで忠義を尽くすという度量の広い人物であることを強調している。そして、景勝は重臣の直江兼続に大軍を預けて最上領を攻めさせた(慶長出羽合戦)。なお、この山形侵攻は三成と「内々示し合せし」とあり、近年言われている三成=景勝共謀の否定を覆すように、両者の共謀があったことを主張している。出羽合戦で直江は大軍を率いながらも醜態を晒しまくり、少数の最上軍の前に長谷堂城で苦戦。他の城攻めでも最上軍の激しい抵抗にあい、上杉軍は全く相手にならなかった。そこに関ヶ原の戦い本戦での家康勝利が知れ渡り、義光は自ら出馬して上杉軍を攻めまくり、直江兼続は自ら殿して劣勢を踏ん張り、会津に帰った。その直江の殿を見て、義光は上杉に未だ上杉謙信の武勇が残っていると褒めたたえたという。そして、義光は庄内地方を上杉から奪い返し、出羽の大大名になった。しかし、長男の最上義康を殺し、自らの死を悟った義光は、家康に次男の家親を託して病死する。その後、最上氏が改易になったことが描かれている。巻末には「最上家諸将知行高之事」と山形城の最上氏改易後の記事がある。

なお、下巻は上巻に比較して日付が入っている記事が多い。

これよりちょうど100年ほど後に成立した『最上斯波家伝』では『義光物語』を異常なほど批判している。まず、『義光物語』の著者について「元和の最上改易後に浪人として水戸に住んでいたところ執筆したが、自分の名前すら記していない」と批判している。その内容についても、戦士と偽って名字を付けたとか、旧史の文を真似して言葉を飾ったとかで、合戦についても「敵が弱く味方は強く書きすぎている」としてあるがままに書いていないとして、『義光物語』を偽書と断じている。しかし、『最上斯波家伝』は関ヶ原から132年も後に成立したもので、34年後に成立した『義光物語』のほうが信頼性は高いと考えられる。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]