最上斯波家伝

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最上斯波家伝(もがみしばかでん)とは、関ヶ原の戦いにおける慶長出羽合戦における史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

奥書に「享保十七皐月廿三日、寿松軒睡翁一瞬、六拾三齢書」とあり、巻末にも「享保十七壬子閏皐月廿三日、睡翁一瞬書」とあることから、享保17年(1732年)に成立し、著者が寿松軒睡翁一瞬という人物であることは明らかである。ただ、享保17年には旧暦5月と閏5月が存在し、この場合、片方が「皐月」、もう片方が「閏皐月」になっており、5月23日と閏5月23日のどちらで成立したのかは不明である。

著者は63歳の時にこれを書いたと述べているため、逆算すると寛文10年(1670年)の生まれとなる。一瞬は自身の出自について、曾祖父岩瀬但馬(四郎兵衛)という最上氏の家臣で、23歳の時に慶長出羽合戦に参加してその見聞を書き残していたため、その旧記を基にして書いたと述べている。なお、一瞬は宝暦4年(1754年)7月に85歳で死去している。

一瞬は自身がこの著書を書いた動機として、既に世の中に流布していた『最上義光物語』(以後、『義光物語』)など、最上氏関係の史料が余りに誤りや曲筆が多いため、それを自身の書により正すためと主張している。ただし、それにしては題名から異常である。この著書は慶長出羽合戦について最上氏サイドから書いたものだが、それを『最上斯波家伝』と称していること自体が異常であり、それは一瞬自身も思っていたのか、表紙の中央部分に「最上斯波家伝全」と題簽を張り付けていたり、また別の個所に「慶長五年庚子秋……最上……」と読める題簽も存在しており、題名については著者が迷っていた可能性がある。

内容[編集]

出羽国の関ヶ原と称された慶長出羽合戦について、最上氏のサイドから書いた軍記物である。全1巻。6章から成り立っている。

  • 1章 - 「最上斯波家」という題名で、最上義光に至るまでの家系について、あるいは歴代当主の忌日、菩提寺などについて書かれている。系図を見ると最上氏がいかに名門かを強調し、義光については「智仁勇の三徳を備えた武将である」と称賛している。
  • 2章 - 「奥州会津上杉家之勢、最上乱入之略記」という題名で、6章の中で1番長い。会津征伐に至るまでの経緯や石田三成直江兼続の関係、最上乱入についてなどを表している。
  • 3章 - 「慶長五年庚子九月十二日畑谷城攻」という題名で、上杉軍による畑谷城攻めについて記している。
  • 4章 - 「長谷堂合戦」という題名で、上杉軍による長谷堂城攻めについて記している。
  • 5章 - 「上山合戦記」という題名で、上杉軍による上山城攻めについて記している。
  • 6章 - 「別録」という題名で、天正11年(1583年)からの小梁川貞範の「上の山合戦記」を添付している。

内容については、『義光物語』の成立よりはるかに後代に成立しているのにかなり詳細に書かれている。しかも、ところどころに会話体で記述しているところがあり、どこにそんな資料があったのか疑問を持たざるを得ないものである。

石田三成や直江兼続については「佞姦なる者」として非難している。上杉景勝については「あくまで直江が強請したことによるもので、景勝は家康に逆らうことは本意では無かった」としている。義光が東軍に属した理由は、豊臣秀次切腹事件愛娘駒姫豊臣秀吉によって殺されたことによる恨みによるとしている。

そして会津征伐が始まり、石田三成の挙兵で家康が上方に引き返す際、家康が景勝に使者を送ってわざわざ撤退することを知らせ、どうしても追撃するなら一戦すると言い、それに対して景勝は「我が領内に乱入しないならば、私は人の弱みを見てその後を襲ったりしない」と返答し、家康は「景勝は不義の軍を起こしたりしない。さすがは天晴仁義勇武の大将哉」と称賛したという。作者はこのように、家康と景勝はかなり好意的に書いており、むしろ石田と直江こそ元凶のような愚劣な人物として描いている。

慶長出羽合戦における直江の愚劣ぶりは関係史料ではどれも同じだが、この著書でもそれは変わらない。家康の撤退を知って最上領への侵攻を進言し、景勝から無理やり許可を得る。当初は全軍を1本化して最上領に侵攻させ、溝口左馬助の進言により上山城をまずは踏みつぶす予定だった。ところが、畑谷城の江口光清の部下から内通の約束をした密書が届いたので、直江は愚かにも軍を2つに分けて畑谷城も同時攻撃すると言い出した。溝口は軍を2つに分けることは愚かなこととして反対するが、直江は聞き入れずに侵攻したことになっている。

溝口が思った通り、軍を分けたこと、畑谷城は攻め落としたものの約束した内通者は現れず、城将の江口の徹底抗戦でかなりの犠牲を払ったため、直江もさすがに反省して長谷堂城をまずは攻め落とそうとした、とされている。しかし、直江の愚劣な指揮により長谷堂城はびくともせず、9月30日に城を総攻撃すると決定するが、その前に景勝から関ヶ原本戦での西軍敗北が伝えられて撤退を命じられる。この際の撤退においては、直江の活躍ではなく、大関常陸前田慶次、溝口左馬が活躍したことになっている。ただし、溝口はこの際に深手を負って死去している。また、この撤退戦で最上軍に1570人も戦死者が出たとしている。

上山の戦いでも、溝口が危惧した通り、上杉軍は散々に最上軍に叩かれて敗走している。その後、慶長6年(1601年)3月の上山の戦いまでが描かれている。

『義光物語』を異常なほど批判しており、著書の中でその批判ぶりが半端ない。まず、『義光物語』の著者について「元和の最上改易後に浪人として水戸に住んでいたところ執筆したが、自分の名前すら記していない」と批判している。その内容についても、戦士と偽って名字を付けたとか、旧史の文を真似して言葉を飾ったとかで、合戦についても「敵が弱く味方は強く書きすぎている」としてあるがままに書いていないとして、『義光物語』を偽書と断じている。しかし、『最上斯波家伝』は関ヶ原から132年も後に成立したもので、34年後に成立した『義光物語』のほうが信頼性は高いと考えられる。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]