於振
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於振(おふり、? - 寛永20年4月9日(1643年5月26日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。織田信長の娘。6女と見られる。
略歴[編集]
生年は不明だが、母のお鍋が信長の側室になったのが元亀年間であるから[1]、生年は元亀年間末期か天正年間初期だと推定される。天正10年(1582年)6月に父の信長が本能寺の変で死去した後は、恐らく母親に養育されたものと推定される。
尾張国の武将である水野忠胤との結婚は、天正10年代後半と推定されている。忠胤との間には1男2女(長男・水野勝信。娘は丹羽氏信、南条宣政に嫁いだ娘)がいる。しかし、忠胤は慶長14年(1609年)に不祥事が原因で江戸幕府の命令により改易の上、切腹を命じられ、子供たちは忠胤の兄・水野勝成に預けられて、勝信と丹羽氏信に嫁いだ娘はその養女になっている[1]。
お振は水野家から離籍され、自分とはいとこの関係に当たる佐治一成と再婚することになった。一成は寛永11年(1634年)に死去しているが、一成との間には子供はいなかったという[1]。
お振は一成の死から9年後の寛永20年(1643年)に死去した。法名は康清院殿江岩妙練禅定尼。墓所は京都府京都市北区大徳寺総見院[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。