新加制式
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新加制式(しんかせいしき)とは、戦国時代に阿波国の戦国大名として勢力を誇った三好氏の分国法である。ただし、三好氏の宗家ではなく、分家による分国法であり、どこまで効力があったのかは不明である。
概要[編集]
戦国時代の阿波国は、守護大名の細川氏が没落し、その家臣の三好氏が勢力を振るった。その三好氏も畿内に進出して以降は、当主である三好長慶の弟である三好実休が阿波支配に当たっていたが、実休は永禄5年(1562年)に久米田の戦いで戦死し、後継者にはその嫡子である三好長治が立ったものの、まだ10歳になったばかりの少年であり、実際の国政は家宰の篠原長房が担当した。
この新加制式は、その長房が定めたものとされている。成立年間は不明だが、恐らく永禄年間後期と見られる。ここで珍しいのは、分国法とは当主が家臣に対して定めるものであるが、この新加制式は実権を掌握していたとはいえ、分家の当主の重臣に過ぎない長房が定めているということである。
現存している史料から見ると、22か条からなるこの分国法は、第1条で神社や寺塔の崇敬や保護を呼び掛けた後、以下は主に相論の処理に関する規定や地頭の所領支配に関する決まり事などが規定されている。内容を見るに鎌倉時代中期に第3代執権である北条泰時が定めた御成敗式目を形式的に模倣したものと見てよいかもしれない。
この新加制式がどこまで効力があったのかは不明である。実休の死後2年をして長慶も没し、以後の三好氏は内紛で急速に衰退する。長房も天正元年(1573年)に主君の長治に殺害されており、その時点でこの分国法は全くの無力になったものと思われる。