惟任退治記

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惟任退治記(これとうたいじき)とは、本能寺の変に関する史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は豊臣秀吉家臣大村由己。成立に関しては天正10年(1582年)10月15日と見られていたが、この日は織田信長葬儀大徳寺で執行された日であり、考えにくい。松永永種の奥書には同年10月25日に既に著書があったことを記しているので、10月までに成立していたことになる。つまり、本能寺の変からわずか4か月後ということになる。

別称は『惟任謀反記』(これとうむほんき)。惟任とは明智光秀が織田信長から与えられたであり、晩年の光秀はこちらで呼ばれていたことから採用されたものと思われる。また、退治や謀反とあるように、秀吉の家臣が書いたものなので「明智光秀=悪」というバイアスがかけられている。

内容[編集]

全1巻。最初は織田信長の栄耀栄華、武田征伐の終了後から秀吉の備中国高松城攻め、そして光秀の謀反を企てる顛末から本能寺の変とその状況、それを知った秀吉による中国大返し山崎の戦い清須会議から大徳寺での織田信長の葬儀までが語られている。つまり、時間的に言うなら天正10年(1582年)4月から10月までの半年間ということになる。

大村は信長と同時代の人物なので信頼性はあると思うが、それにしてはどうやって本能寺の状況や二条御所の状況を知ったのかという疑問がある。例えば本能寺の変で信長は光秀の謀反だと知ると「もはやこれまで」と決意し、女房衆を近侍にことごとく刺殺させ、自ら寺に火をかけて死んだことになっている。信忠の場合は二条御所に籠もり、そこに明智軍が攻撃をかけると自ら斬り込んで明智軍を何度も撃退したことになっている。秀吉については「大恩ある主君の仇を討った忠臣」として描かれている。また、勝者としての余裕かどうかは不明だが、光秀の腹心だった斎藤利三に対して最上の評価を与えたりしている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]