平福藩

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平福藩(ひらふくはん)は、江戸時代前期のわずかな期間だけ播磨国に存在したである。藩庁は利神城姫路藩支藩的な存在であった。藩主家は外様大名池田氏(2万5000石)。現在の兵庫県佐用郡佐用町に存在した。別名を佐用藩(さようはん)という。

概要[編集]

播磨国姫路藩主の6男・池田輝興は母親が徳川家康の娘・督姫であった。つまり家康の外孫であったため、徳川氏の準一門として江戸幕府からも重用され、元和元年(1615年)に播磨国佐用郡に2万5000石を与えられ、ここに平福藩が立藩した。

寛永8年(1631年)、同じ播磨の赤穂藩主で輝興の同母兄である池田政綱(池田輝政の5男)が嗣子無く死去したため、輝興が赤穂郡に1万石加増の3万5000石に移封されることになり、平福藩は廃藩となった。

歴代藩主[編集]

池田家

外様。25000石(1615年 - 1631年)

  1. 輝興(てるおき)