岩松満純
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岩松 満純(いわまつ みつずみ、? - 応永24年5月13日(1417年5月29日))は、室町時代前期の武将。上野新田荘の国人領主[1]。父は新田義宗[1]で養父は岩松満国[1]と伝わり、妻は上杉氏憲(禅秀)の娘で那須資之、千葉兼胤は相婿。子に家純[1]。法号は天用[1]。
生涯[編集]
新田義宗を実父とする説が事実なら、祖父は新田義貞となる。
応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が発生すると、禅秀に与して足利持氏を鎌倉から追放するのに貢献した[1]。このため持氏が室町幕府の支援を得て反撃して来ると満純は敗走して新田荘に潜伏するが、隣の荘の国人である舞木持広と武蔵入間川で戦って敗れ、鎌倉の竜ノ口で処刑された[1]。
子の家純は西国に落ち延びて、後年に岩松家は再興した[1]。