山本勘助の墓
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山本勘助の墓(やまもとかんすけのはか)とは、甲斐国の戦国大名である武田信玄に仕えた山本勘助の墓である。愛知県豊川市牛久保町八幡口97の長谷寺に墓所が存在する。
概要[編集]
山本勘助は以前は架空の人物と言われていたが、昭和44年(1969年)の『市河文書』などから実在人物であることが確認されている。永禄4年(1561年)9月の川中島の戦い(第4回)で戦死するが、勘助は生前、親交のあった故郷の長谷寺住職・念宗和尚に、『もし自分に何かあった際に弔って欲しい』との依頼がされて、自らの髪を預けていたという。そのため、和尚は勘助の戦死後に長谷寺に遺髪塚を建立した。
『甲陽軍鑑』などでは、片目、片足(隻眼、隻脚)で兵法に優れ、武田流兵法の祖として崇められている名軍師とされるが、実際に参謀として信玄に仕えたかどうかは疑問視されている。