小原鎮実
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小原鎮実(おはらしげざね)は、戦国時代の武将。今川家国衆、三河国吉田城代。
生涯[編集]
- 生年は不明であり、詳細に分かるのは吉田城代に成った頃からである。
- 駿河遠江の太守今川義元は天文15年(1546年)から翌、天文16年(1547年)にかけて三河国の敵対勢力を排除するべく軍を送った。そして今川派の牧野氏と敵方の戸田氏が争い戸田氏が支配していた、吉田城を今川が攻略し、鎮実は吉田城代に任命された。
- しかし、永禄3年に今川義元が討ち死にしてしまう。その後松平元康と共に織田氏を攻めるが、士気が低く敗北していた。鎮実は援軍を東三河から派遣するが、もはやそれだけでは織田氏に対抗出来なかった。鎮実と元康は今川氏の当主の今川氏真に援軍を求めたが、甲相駿三国同盟の一角北条氏が小田原城の戦い長尾景虎に大軍で包囲され、その援軍に軍を向かわせていたので、三河にほとんど援軍は無かった。
- 氏真の同盟を重視し、三河国衆を見捨てる様な対応は、松平元康の不信感へと繋がり、元康は織田信長と和議を結び、その後同盟を結んだ(清洲同盟)。こうして、松平元康は独立に向かって行ったのである。
元康はその後吉良義昭を追放し、上ノ郷城を攻め、城主であった鵜殿長照は自害した。鎮実は、東三河国衆や西遠江の国衆らと共に松平派の菅沼定盈や西郷氏らを攻め、城を落とし撤退させるも、再び松平の支援受け奪還される。
永禄5年(1563年)には、今川氏真自ら三河へ攻めるが今川氏から独立の意味を込めて元康から家康に名前を改めた家康に敗北し、撤退してしまった事で東三河の多くの国衆が寝返ってしまった。