孫皎
ナビゲーションに移動
検索に移動
孫 皎(そん こう、? - 219年)は、中国の後漢末期の武将。字は叔朗(しゅくろう)[1]。父は孫静。兄は孫暠・孫瑜。弟は孫奐・孫謙。子に孫胤・孫晞・孫咨・孫弥・孫儀。
生涯[編集]
孫静の3男。護軍校尉として2000人の兵力を持ち、曹操が呉に攻め込んできた際には撃退に貢献する[1]。219年、孫権が蜀の関羽から荊州を奪おうとした際、最初は呂蒙と孫皎にそれぞれ指揮を執らせようとしたが、呂蒙が指揮系統の一本化を主張したため後詰となる[1]。関羽追討でも功を立てたが、関羽没後に間もなく孫皎も大した病でもなかったのに急死したという[1]。この前後に呂蒙や曹操も死んでいるため、彼の死も関羽の呪いと噂された。
『三国志演義』では第75回に登場し、関羽討伐で呂蒙と共に指揮を執ろうとしたが呂蒙の反対を受けたため出番は無い。