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学校算数
学校算数(がっこうさんすう)とは小学校という閉じた世界でしか通用しない算数のことで、数学が「数楽」にならない原因とされている。
概要[編集]
学校算数は文字式を使用しない建前だが、遠山啓による水道方式においては、未知数を「カンヅメ」、定数を「ビンヅメ」と呼んで小学生にも教えている。
学校算数は、数学的な要素を含んでいるが、ゆとり教育以降、教科書会社や小学校教師は、下記のように、この部分を算数から排除しようと試みているとされている。
例を挙げると、いわゆる「九九」には「0の段」はないので、「零元との積は0である」ことを前提としている。あるいは、現在では「総九九」「全九九」が主流だが、かつては「ににんがし」から始めて「くくはちじゅういち」で終わる「半九九」が教えられており、数学者の一松信によれば、「さんにがろく」と唱えると、「『にさんがろく』だ」と父親に叱られ、完璧な暗唱を求められたという。したがって、「単位元との積によっては値は変わらない」「乗算においては交換法則が成り立つ」ということは自明である、と一松は考えていたようである。しかし、交換法則という知恵を小学生で出すことに嫌悪感を覚える教師は少なくないようである。
この弊害は小学校の算数の授業にも及び、「正方形」を「ましかく」、「長方形」を「ながしかく」と呼んで区別するため、「『正方形』は『ましかく』であって『ながしかく』ではない」という(公立の小学校の)教師がいたりする。もちろん正方形は長方形の一種であり、正方形も長方形も菱形も平行四辺形の一種であり、平行四辺形は台形の一種であり、正三角形も二等辺三角形の一種ではあるのだが、そういうことはゆとり教育以降、学習塾で学ぶことであるとされ、大量の落ちこぼれ児童を出している。この問題は高度成長期以降の「平均信仰」という一種の反社会的なミームであり、浮きこぼれという高機能であるがゆえに学校から遠ざかってしまうケースも生み出している。
内容に関する課題[編集]
文部科学省の小学校学習指導要領解説(https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1387014.htm)によるが、実際の指導に関しては児童用の教科書や教師用の指導書3による。項目としては、
- 数と計算
- 図形
- 測定
- データの活用
- 〔数学的活動〕
に分類されており、中学校教育における「数学」につながる指導を念頭においている。ただし、「教師の世代交代が進むと同時に,学校内における教師の世代間のバランスが変化し,教育に関わる様々な経験や知見をどのように継承していくかが課題となり,また,子供たちを取り巻く環境の変化により学校が抱える課題も複雑化・困難化する中で,これまでどおり学校の工夫だけにその実現を委ねることは困難になってきている。」と文科省がボヤいているように、教師側の問題も浮かびあがっている。 以下の内容は、「小学校学習指導要領解説算数編」(平成 29 年7月。https://www.mext.go.jp/content/20211102-mxt_kyoiku02-100002607_04.pdf)に基づく。
学年ごとの課題[編集]
1年生[編集]
小学校一年次では「ひとけたの数を足し算した結果として出てきた ふたけたの数」であり、もっぱら「十から十八までの数」のことをいう。したがって 二進数ではない。水道方式では、五・二進法によってこの点を理解しやすくしているが、いわゆる「発達遅延」の児童に「足し算九九」を暗記させようと強いる教師もいる。
「個数や順番を数えること」に関しては、順序は「比較可能な線形順序」として教えられることが多い。児童はみな平等であり、「違い」はあっても「どちらが上か」という話はあるわけだが、「『どっちが上か』ということを教えこまれる」という意味では、いじめに繋がる傾向も孕んでいる。
2年生[編集]
- 二桁の加法・減法や筆算で児童は「位取り」の概念を知るわけだが、このあたりに理解のない教師は「暗記しろ」と命令する以外の能がない。
- 乗法(掛け算)を教えられる。「八十一個を何らかの方法で覚えてしまえば何ら問題はない」という意見もあるが、0から9までの順列は百通りあるわけで、自然数に限っての話である。いわゆる「九九」は、「ににんがし」から「くくはちじゅういち」までなので、「一の段」はなかった。したがって実質的には六十四通りしかなく、交換法則も受け入れれば三十六通りまで減らせる。前述のとおり、暗記で片づけようとすると、中学で数学を学ぶときに躓くことがある。
- 「リットル」「デシリットル」「ミリリットル」の換算について学習する。ただし、都市部では「デシリットル」という言葉は日常生活では殆ど使われていない。そもそも「デシ」や「ヘクト」もあまり使われておらず、皮革などで「1デシ=10cm×10cm」が使われたり、「ヘクタール」(百アール=百メートル×百メートル)が使われたりするために、生活単位の一部として教えられているだけの話である。「一畳」「一坪」、「一寸」「一尺」「一間」「一丈」、「一貫目」などは、秤量法をメートル法で統一しようという指導方針を徹底する際に厳しく教えられたという。したがって、「五寸釘」「九寸五分」などはメートル法で表現しなければならないらしい。実際に、「一升瓶」は「1.8リットル瓶」と呼ばれていたが、最近は「2000ml入り紙パック」が普及しつつあるため、死語になりかかっている。「四合瓶」も、「720ml瓶」と呼ばれつつある。
3年生[編集]
「最大公約数」と「最小公倍数」と「自然数の積」などの関係を児童に理解されるように教えられる教師は稀少である問題がある。
すなわち、「小学校三年生以下の児童には、徹底的に計算課題をやらせろ」という教師側の(あるいは算数教科書の指導書に示された)思惑あるのだが、「1から100までの自然数をすべて足せ」といった課題に対して五分もかからずに「5050」と答えてしまう児童は「ガウス(オイラーだったか?)の再来だ!」と称賛されるどころが、根性論の教師に創意工夫が認められず「チートだ」と目をつけられて虐待の対象になるらしい。
4年生[編集]
「約分」は試行錯誤によるしかない難点がある。
すなわち、「教科書に載っていなくて、学校で教えられていないことをテストで使ってはならない」というルールを徹底的に叩きこまれるのがこの時期であり、そのルールに従わない児童は教師によって「問題児」とみなされて「指導」を「強化」される管理教育が行われることがる。
数学的活動に関する問題[編集]
「児童が目的意識をもって主体的に取り組む算数に関わりのある様々な活動」であるとする従来の意味を、問題発見や問題解決の過程に位置付けてより明確にしたものである。』
とあるが、要するに学校教師の「嘘も方便」「あとは自己責任」という言い訳に過ぎないように読める[注 1]。「小学校・中学校・高校の算数・数学の教師はみんなクソだった」と断じて憚らない人は少なからずいらっしゃって、「そのせいで数学が嫌いになった」という人も少なからずいる(とくに女性に多い)。それもあってか理学・工学系の人材は不足しつつあり、「リケジョ」とかいってマスコミが持ち上げてはいるものの、肝心のメディアの記事を書いている記者に理学・数学・工学系のリテラシーがないという問題点があると考える人がいる。
宿題に関する問題[編集]
現状、「自由時間を活用した小学生の創造性育成の機会を奪う」ためであり、そんなものをやっている暇があったらパソコンの使いかたやスプレッド・シート型のアプリケーションやプログラミング言語の習得に時間を使ったほうがいい。プリントやら算数ドリルやらは紙資源の無駄遣いとなろう。
本来の意味での“算数”との乖離[編集]
現在の日本では、算数<数学という間違った認識がミーム化しているが、実際には“数学”(ギリシャ数学)の千年以上前から算数と数学は手を取りあって歩んできた。これは古代バビロニアの数学粘土板から明らかである。
算数は「計算術」であるが、そこに「論理」と「証明」が入ってきて、都市文化が広まりギリシャ時代になってポリス文化が対立し抗争するようになってから、ポリスの構成員(主に意思決定権のある有権者)が「学ぶべきもの」としての数学(マセマティクス)が成立した過程を忘れてはならない。
関連項目[編集]
注[編集]
- ↑ その点、塾教師や予備校教師は逃げ場がないので、教育に熱心である。学校で「お客様」というと「教師の指導に従わない児童・生徒・学生」をいうが、塾や予備校では「お客様」は目の前にいる児童・生徒・学生であり、飯の種なので疎かにできず、「ごはん粒を残すと目が潰れる」というくらいに取りこぼさないのが常識である。