奥絵師
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奥絵師(おくえし)とは、江戸幕府の役職の1つである。江戸幕府の絵画御用の一切を司る絵師のことを指す。別名を御用絵師(ごようえし)という。土佐派の住吉氏・板谷氏の両家と狩野派4家がその役を務めた。奥医師に準じた待遇を与えられた。
概要[編集]
待遇は旗本同様で御目見以上の格式であった。絵師というと仕事などほとんど無いだろうと思いがちであるがそうではない。江戸幕府は鎖国政策をとっていたが、清とオランダ、そして李氏朝鮮とは国交ならびに貿易を維持していた。特に李氏朝鮮とは関係が深く、征夷大将軍が代替わりした際には李氏朝鮮から使節団が来日することが慣例となっており、これを来聘使(らいへいし)あるいは通信使(つうしんし)と称していたが、使節団を迎えるにあたって幕府側も当然、返礼としてそれなりの物品を贈ることが常態化していた。その際に金屏風を贈ることが慣例となっており、これを朝鮮屏風と称したという。この屏風を描くのは奥絵師の非常に重要な仕事であった。その他にも、江戸城殿舎や日光東照宮の絵画などを描くことも職務とされた[1]。
この職務の起源は、徳川家康が江戸城を大々的に造営する際に京都から呼び寄せた狩野派に絵画を描かせたのが始まりで、元和7年(1621年)に江戸城鍛冶橋門外に屋敷を与えたのが起源といわれている。幕府の職制が整備されると、狩野派は分家して中橋、木挽町、鍛冶橋、浜町など4か所に分かれ、4家ともに奥絵師の中でも特に家格の高い地位にあった[1]。
狩野派以外に、土佐派2家(住吉家・板谷家)があり、奥絵師はこの6家におより世襲された。若年寄支配で、役高は200石だった[1]。
奥絵師以外の幕府の御用絵師には、表絵師があった[1]。