日光東照宮
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、徳川幕府初代将軍徳川家康を祭神とする栃木県日光市に鎮座する神社である。四大東照宮の一つである。
概要[編集]
徳川家康は元和二年4月17日(1616年6月1日)、駿府城(静岡県静岡市)で逝去した。直ちに久能山に神葬された。 「東照社」の造営は、元和二年10月26日「下野国日光山に神廟構造あるべし」との将軍の命により、天海・本田正純・藤堂高虎らが日光山に登り、社殿造営の土地の選定を行った。造営奉行は藤堂高虎・本田正純・日根野吉明ら四名が添奉行となり、設計施工は中井大和守正清が担当し、元和三年3月15日に完成した。2月25日に「東照大権現」の神号が勅賜され、3月9日の「東照社」を正一位に叙した。
元和3年(1617年)3月15日、久能山に天海が先達として登山し、家康の遺骸を修めた神柩が金輿に移され、本田正純・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝・永井直勝・榊原照久らが300騎、雑兵千人を率い、日光に向かった。神柩は4月4日、日光山の座禅院に到着し。8日に奥院の岩窟に安置された。同14日、神霊は仮殿に移され、16日深夜に本殿に移された。4月17日二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもとで祭礼が行われ、正式に「東照社」として鎮座した。正保2年(1645)宮号を賜り、「東照宮」となった[1]。
鎮座から20年後の寛永13年(1636年)、三代将軍徳川家光は社殿の建て替えを行った。総工費は金56万8000両、銀百貫目、米千石で[2]、すべて幕府の負担であった。総奉行(日光造営奉行)は秋元但馬守泰朝である[3]。工事や大工の総責任者に大棟梁甲良豊後宗広が当たり、1年5ヶ月の工期で完成した。
建築・美術・工芸の総力を挙げ、江戸時代初期を代表する豪華な宗教建築である。
社参[編集]
徳川将軍の参拝は「社参」と呼ばれ、十九回実施された。うち家光の社参は十回である。時代が下ると、社参の規模が拡大し、1776年(安永5年)の行列は江戸から日光まで人馬一続きになったとされる。
明治以後[編集]
大政奉還後は変革を迫られ、1868年、戊辰戦争では旧幕府軍2000名が日光山に立てこもり、西軍を迎撃する構えを見せた。板垣退助、谷干城と日光山側の尽力で、戦火を免れた[3]。
施設[編集]
- 陽明門
- 国宝
- 三間一戸の楼門で「日暮御門」と言われる。
- 日本を代表する美しい門
- 故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500体以上の彫刻がある
- 石鳥居
- 明神鳥居
- 重要文化財(1908年(明治41年)8月1日)
- 1618年(元和4年)、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政が奉納した。領国の福岡から切り出した石材である。
- 九州から船で小山まで運ばれ、その後陸路人力で日光まで運んだ。
- 江戸時代に造営された鳥居では日本最大の規模
- 日本三大石鳥居のひとつ