大津市立晴嵐小学校
大津市立晴嵐小学校(おおつしりつ せいらんしょうがっこう、英 Otsu City Seiran Elementary School)は、世界最強の著作権ヤクザに喧嘩を売った、日本一度胸のある小学校である。
基礎データ[編集]
- 設立年月日: 1936年(昭和11年)9月1日
- 所在地: 郵便番号520-0856 滋賀県大津市光が丘町4番70号
- 設置者: 大津市
- 通学区域: 松原町、粟津町、栄町、唐橋町、鳥居川町、晴嵐一丁目、晴嵐二丁目、光が丘町、田辺町、蛍谷、園山一丁目、国分一丁目、国分二丁目、北大路一丁目、北大路二丁目、鳥居川町1番~3番・9番、4番1号・28~35号、北大路三丁目20番~29番[1]
- 進学先: 大津市立粟津中学校または大津市立北大路中学校
沿革[編集]
- 1936年(昭和11年)9月1日 - 大津市立晴嵐小学校として開校。旭ベンベルグや東洋レーヨンなどの工場が建設されたことに伴い、当時の石山学区北部の人口が増加したため開校された[2]。開校当初の生徒数は688人[3]。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 大津市立晴嵐国民学校と改称。
- 1947年(昭和22年)9月1日 - 大津市立晴嵐小学校と改称。
- 1963年(昭和38年)- 東海道新幹線の建設に伴い北大路二丁目から光が丘に移転[4]。移転に先立って、地元は「新幹線対策委員会」が結成され、その後「新築移転促進委員会」「新築記念協賛会」に名前を変えながら問題に対処した[5]。
封印されたミッキーマウス事件[編集]
1987年2月中旬より、6年生の男子児童107人が卒業制作として同校のプールの底にミッキーマウスとミニーマウスの絵(各、直径3メートル程度)を描き、3月13日頃完成した。女子児童101人はクロスステッチのテレビカバーを全ての教室分制作した[6]。この時の読売新聞の論調は子供たちが力を合わせて何かを成し遂げた美談、と言った感じで、著作権には一言も触れていない。
1987年5月中旬、これを新聞(先述の読売新聞の可能性もある)で知ったという日本・ウォルト・ディズニー・プロダクション社の社員が突然現れ「絵を消さなければ著作権法違反で訴える」と迫った。著作権について無知な?校長は抵抗したようだが、結局6月中旬には絵を塗りつぶして消している。約1か月の間に水面下でプールの底だけに何があったのか。ディズニー側は「子供には気の毒だが、他人の権利を知る教訓になったと思う」と述べている[7]。
1987年9月13日、学校は当時の卒業生を集め、新しく制作する絵のデザインを募った。いくつかの案の中からエンゼルフィッシュが選ばれ、12月末、教員ら10名が二日間かけてプールの底に描く[8]。それ、必要?その後、子どもたち(6年生全員か男子のみか不明)は東京ディズニーランドに招待されたと『週刊金曜日』2000年11月3日の報道にあるが、三重大学名誉教授の奥村晴彦によるとこれは真偽不明らしい。
この件に対するディズニー側の一連の対応の裏には、ミッキーマウスの著作権がまもなく切れることが関係しているという都市伝説がある。当時の著作権法のもと、1928年に公開された映画に登場した団体名義の著作物たるミッキーマウスの著作権は、1978年12月31日に切れる。戦時加算の3794日を加えても1989年5月21日に切れる。そこで、ディズニーはこわ~い著作権ヤクザであることを印象付けるため、小学校の卒業制作を消すというパフォーマンスを行ったというものだ。しかし、これはおそらく事実ではない。著作権がいつ切れるか、そんなことはディズニー側もパチモン製作業者もよく知っているはずであるし、いったん著作権が切れればディズニーといえどもどうすることもできない。
脚注[編集]
- ↑ “大津市立学校及び幼稚園通学区域一覧表(平成31年4月1日現在)”. 大津市教育委員会学校教育課. 2019年9月23日確認。
- ↑ 大津市 1999, p. 102.
- ↑ 晴嵐史編集委員会 1980, p. 261.
- ↑ 大津市 1999, p. 103.
- ↑ 晴嵐史編集委員会 1980, p. 263.
- ↑ 読売新聞 1987.
- ↑ サンケイ新聞 1987.
- ↑ サンケイ新聞 1988.
参考文献[編集]
- 晴嵐史編集委員会 『晴嵐史話』 晴嵐コミュニティ推進委員会、1980年9月1日。
- 大津市歴史博物館市史編さん室 『図説大津の歴史』下巻、大津市、1999年10月1日。
- “プールにミッキーマウスの絵 大津・晴嵐小 6年生が卒業制作”. 読売新聞. (1987年3月13日)
- “プールの絵 著作権違反 ディズニー力作を塗りつぶさせる”. サンケイ新聞. (1987年7月10日)
- “卒業制作は先生が描いた! 児童の絵に著作権クレーム 子供の意見また無視”. サンケイ新聞. (1988年4月3日)