大原正純
大原 正純 おおはら まさずみ | |||||||||||||||||||
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大原 正純(おおはら まさずみ)は、江戸時代後期の武士で、江戸幕府の幕臣。第13代飛騨郡代で、父の正純と共に2代にわたって飛騨国において悪政を布いた悪代官として知られている(大原騒動)。
生涯[編集]
家督相続[編集]
父は第12代飛騨郡代の大原紹正。母は不詳。兄に勝次郎がおり、本来であれば家督を継承する身分では無かったのだが、その兄が安永2年(1773年)に不慮の死を遂げたので、世子となった。
父の紹正は大原騒動と称される大騒動を引き起こし、年貢を厳しく増徴して飛騨で悪政を布いた。余りの酷さに民衆が立ち上がったものの、当時は賄賂好きな田沼意次による後ろ盾があったので、紹正はその後ろ盾をもって騒動を鎮め、騒動に関与した農民は厳しく処分した。だが、余りの酷さに紹正の妻は心痛となり、安永6年(1777年)に夫を諫言するも聞き入れるどころか離縁すると言い出されて、ショックの余りに自害した[1]。
そして父も、年貢増徴の功績をもって郡代に栄進したが、因果応報なのか安永7年(1778年)に失明し、安永8年(1779年)には原因不明の熱病にかかって死去した。これにより、大原家の家督は正純が継承することになった。
父に劣らぬ悪政[編集]
天明元年(1781年)、正純は父の後任として第13代飛騨郡代に任命された。これがそもそも異常だった。郡代は世襲職ではないし、当時まだ数えで17歳の若年に過ぎない正純が就任するのは異常としか思えない事態だった[2]。この任命については、賄賂好きの田沼に父の時代から賄賂を贈っていたこと、さらに正純とその取り巻きが田沼に対して賄賂をさらに贈ったことが効いたため、とされている。実際、飛騨の年貢の過納分[3]を着服したという噂があったという。
正純は亡父に劣らぬ私利私欲の持ち主で、悪政を繰り広げた。天明3年(1783年)、浅間山の噴火により5年間にわたる天明の飢饉が始まり、飛騨もかなりの被害を受けたが、正純は救済するどころか、6000両に及ぶ一条金[4]を差し出すように命じた。
天明4年(1784年)3月20日、飛騨高山で大火災が起こり、市街の8割が焼失する大被害を被った。さすがの幕府も相次ぐ天災を見て、領民を救済するために天明5年(1785年)3月に年貢を安石代に改めて、それにより幕府から1600両の払い戻しが本来なら飛騨の領民にあるはずだったのだが、正純はそれを全て自らの懐に入れた。
天明6年(1786年)には飛騨を冷害が襲い、幕府から被害を受けた領民に対する救済金が出されたが、それを正純は着服。そればかりか年貢の過納分を向こう10年自分に献金するように命じるほどだった。余りの酷さに、飛騨の領民の不満は日増しに高まった。
大原騒動の終結[編集]
天明7年(1787年)、正純の悪政に対して流石に不満を爆発させた広瀬屋清七郎、大村万助、上北村伊右衛門らは立ち上がり、江戸で訴えることを企てた。前年に徳川家治が死去し、それにより権勢を振るっていた田沼意次は失脚。徳川家斉が新将軍に就任し、新たな老中に松平定信が就任していたこともあったと推定される。
万助と伊右衛門らは天明8年(1788年)に松平定信の江戸藩邸に張訴する。これを受けて定信は12月に飛騨郡代配下の元締である田中要助を江戸に召還した。
寛政元年(1789年)、飛騨の領民である大沼村忠次郎らが家治から家斉に代替わりしたことで各地を巡見していた巡見使・比留間助左衛門に正純の不正を直訴する。これに対して正純は飛騨の領民を摘発して徹底的に押さえつけようとしたが、6月には比留間の報告を受けた定信により幕府から取り調べのための役人が派遣され、慌てた正純は田中らに命じて関係書類の偽造、改竄を行なった。6月13日には片野村甚蔵、松本村長三郎らによって松平定信に対して駕籠訴が行なわれた。
これら農民の一連の活動が実り、遂に江戸に正純は召還され、勘定奉行の久世広民によって裁かれることになった。12月、判決が下って正純は郡代罷免の上、八丈島への遠島となった。元締の田中は斬首、正純配下の手代は追放された。
以後の正純の行方は不明である。
脚注[編集]
注[編集]
出典[編集]