反家康血盟計画

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反家康血盟計画
戦争: 戦国時代安土桃山時代
年月日: 慶長4年(1599年)
場所: 畿内
結果: 血盟の自然消滅
交戦勢力
加藤清正 徳川家康
指揮官
加藤清正 徳川家康
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

反家康血盟計画(はんいえやすけつめいけいかく)とは、慶長4年(1599年)に計画されたとされる反徳川家康の討滅計画である。

概要[編集]

慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権では秀吉の晩年から発芽していた政治問題が次々と表面化した。そして、慶長4年(1599年)閏3月に五大老のひとりで政権内で重しをなしていた前田利家が死去すると、加藤清正ら豊臣家の武断派による石田三成襲撃事件、いわゆる七将事件が発生した。

この七将事件において、五大老の徳川家康は石田三成に非があるとして、三成の奉行職を罷免して近江国佐和山城に追放した。ところが、石田三成に対して相当な敵意を抱いていた清正は、家康が三成を罷免して追放したくらいでは納得せず、むしろその程度の軽い処罰で済ませた家康に激しい敵意を抱いたとされる。『看羊録』によると、清正は細川忠興黒田長政前田利長浅野長政浅野幸長伊達政宗らと「共に力を合わせて家康を討ち滅ぼし、その土地を分けようと約束したが、彼らを統率する者、つまり党派において重しをなす者がいなかったので統率することができず、具体的な行動に出られないまま、大半が自分の領地に帰ってしまった」とある。

この党派の中で最も所領が大きく、地位でもリーダーと成り得るのは利長だが、父の利家が死去して前田家をまとめる立場にあったためにそれどころではなく、政宗は豊臣政権では外様である。それ以外の面々もリーダーとなるには力不足だった。

結局、慶長4年(1599年)に利長と清正がそれぞれ加賀国肥後国に帰国することで、何ら具体的な行動に出ることなく、この血盟は自然消滅したという。

参考文献[編集]