北越耆談

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北越耆談(ほくえつきだん)とは、戦国時代上杉氏に関する史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

奥書によると、著者は出羽国米沢藩主・上杉氏の家臣である丸太友輔(左門)で、成立が寛文元年(1661年)2月13日となっている。ただ、寛文元年は4月に万治から改元されているので、これはもしかすると偽の成立かもしれない。なお、著者は動機について「古を懐ふ情絶えず、聞伝へたる物語を筆記し」とあるため、昔を懐かしみその情が絶えず沸き起こり、古老から聞いたことを筆記したということになる。

内題は『信州川中島合戦聞書幷上杉家遺老談筆記』(しんしゅうかわなかじまかっせんききがきならびにうえすぎけいろうだんひつき)。

内容[編集]

川中島の戦いをはじめとした上杉家に関する事績を比較的簡略な聞き書き、上杉家の古老の聞き書きを合わせたものである。時系列では天文22年(1553年)の第1次川中島の戦いから慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の頃までで、上杉謙信上杉景勝の時代を記している。最初は川中島の戦いについて聞き書き、後半は上杉氏側の人物についての事績や逸話が記されている。

後半部の逸話関係については記録が錯綜したり、誤記が目立つ。例えば第4次川中島の戦いを弘治3年(1557年)8月にあったとしている。5度目は永禄4年(1561年)にあったとしており、しかもそれについては「別巻」にあるので省略するとしているが、この別巻が何を指すのか不明である。

ただ、著者の丸太は車懸の戦法を川中島で謙信が使用したことについて「当家上杉方にて、遂に聞かざる事なり」と書いている。当家とは自分の仕える家を指すが、これを著書で書いているということは丸太は自分が上杉方を代表するという意識があるのではないかと思われる。なお、上杉氏関係や川中島関係の後代史料では宇佐美を賛美するものが多いが、この史料では永禄7年(1564年)7月に宇佐美定行長尾政景を殺害したと書いており、そして「今に至るまで、宇佐美駿河守事は、当家にては忌んで沙汰せず。先祖の讐たる故なり」と書いている。米沢藩主は長尾政景の子・景勝からその子孫が継承しているため、宇佐美が政景を殺害したことを書いて筆誅を加えていると思われる。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]