勝賀野実信

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勝賀野 実信(しょうがの さねのぶ、? - 天正16年(1588年)10月)は、安土桃山時代武将吉良氏家臣七人みさきの1人に数えられる[1]

略歴[編集]

通称は次郎兵衛(じろうひょうえ)。土佐国幡多郡中村の出身[1]

長宗我部元親の甥で高岡郡蓮池城主の吉良親実に仕え、検地などに従事し、高岡郡および吾川郡南部の領内700余町の地を巡り、多くの検査を行なって全く誤りが無かったので、親実から厚い信任を受けた。その上武勇にも優れて豪胆だったことから、ますます親実に信任されて取り立てられ、重臣の列に入ることを許された[1]の「実」は親実からの偏諱と推定される。

長宗我部信親戸次川の戦い戦死した後、長宗我部氏の家中では後継者問題が勃発していたが、親実は元親や久武親直が推す長宗我部盛親の後継に反対し、そのことから激怒した元親より天正16年(1588年)10月に自害を命じられる。さらに元親は、親実の重臣であった実信の誅殺を家臣の北代市右衛門北代四郎右衛門土肥勝行塩見惣兵衛野中源三兵衛らに命じた[1]

まず、四郎右衛門が斬りかかるが、武勇に優れた実信は応戦して乱戦となり、四郎右衛門を返り討ちにした。次に塩見も返り討ちにしたが、野中に左肩を斬られて負傷した。しかし、野中も返り討ちにしたが、残った市右衛門と土肥によって遂に斬られたという[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e 山本大「長宗我部元親のすべて」P196

参考文献[編集]