劉闡 (劉璋の子)
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劉 闡(りゅう せん、生没年不詳)は、後漢末期から三国時代にかけての武将。劉緯とも表記される[1]。益州牧・劉璋の次男[1]。兄に劉循。
生涯[編集]
214年に父が劉備に降伏した際、父と共に荊州の公安に身柄を移された[1]。219年に孫権により関羽が討たれて荊州が呉の支配下になると、孫権の家臣となる[1]。223年に劉備が崩御すると、益州南部で雍闔が反乱を起こし、劉闡は孫権から益州刺史に任命されて交州と益州の境界に駐屯したが、この反乱が諸葛亮によって鎮圧されると建業に帰還して御史中丞に任命された[1]。『呉書』によると慎み深く義を愛した親分肌の人物だったが、数年後に病死したという。
『三国志演義』には登場しない。