劉辟
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劉 辟(りゅう へき、? - 196年?)は、中国の後漢末期の武将。黄巾賊の大将[1]。
生涯[編集]
黄巾賊の残党で汝南郡や頴川郡で黄邵・何儀・何曼らと数万の軍勢を率いていた[1]。袁術や孫堅に服属していた時期もある[2]。196年2月に曹操の討伐を受けて于禁に斬られた(『武帝紀』)。
ただし以後も存命している記録があり、同姓同名の別人か、この際に逃れた本人かは不明[1]。200年の官渡の戦いで袁紹に協力して汝南郡で曹操に反乱を起こして一時は許昌周辺も荒らしたが、曹仁に敗れた[1]。
『三国志演義』では官渡の戦いの後、劉備と共に曹操の拠点である許昌を攻撃しようとしたが、夏侯惇の攻撃を受けて敗れ、自害しようとする劉備を諌めて血路を開くが、高覧に斬られた。