劉基 (呉)
ナビゲーションに移動
検索に移動
劉 基(りゅう き、184年[1] - 232年[1])は、中国の三国時代の呉の武将。字は敬輿(けいよ)[2][3][1]。弟に劉鑠、劉尚。娘は孫覇の妻。
生涯[編集]
父は後漢の揚州刺史であった劉繇で長男[2][1]。14歳の時に父が死去するが、下部下が持ってきたお見舞いの品を受け取らなかったという[1]。容姿端麗で名声が高く評判になり、孫権が驃騎将軍となると東曹掾として召された[1]。若い頃から孫権の信任が厚く優遇された[3][2]。221年に孫権が呉王に即位すると大農(大司農)に、229年の皇帝即位後は光禄勲に任命された[2][1]。
劉基は機転の利く人物で、それを物語る逸話がある。222年に孫権の呉王祝賀の式で虞翻が孫権に斬り殺されそうになった際、他の重臣が慌てる中で彼だけは冷静に孫権を諌め、誅殺しないように勧めた。孫権はそれに対して「曹操は孔子の子孫である孔融を殺したではないか。自分が虞翻を殺すのに何の不都合がある」と反論すると、「曹操が軽々しく立派な人物たちを殺害した事については天下の者達が揃って非難いたしております。どうしてご自身を曹操などに比べられてよいものでしょうか」と諌め、孫権は怒りを収めて虞翻を許した[3][4][5][1]。
232年に死去。享年49。
『三国志演義』には登場しない。