凌遅刑

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凌遅刑(りょうちけい)とは、生きながら人間の身体の一部を切り刻む刑である。この刑は中国においてよく採用された。日本では凌遅刑という名前より、耳削ぎ(みみそぎ)・鼻削ぎ(はなそぎ)の名前で知られている。

概要[編集]

この刑は中国の古代の諸王朝から近世の王朝までよく行なわれていた。中国の場合は、対象者をいきなり切り刻んで殺すのではない。ゆっくりゆっくり数日かけて身体中のあちこちの肉を削ぎ、最終的に死に至らしめるのである。つまり、時間をかけて対象者を苦しめるやり方である。しかも対象者がこの刑で殺された後、処刑場には多くの群衆が集まる。なぜかというと、当時は人肉が漢方薬の原料になると信じられており、刑の対象者の削がれた肉を先を争って買っていたからである。

日本の場合は処刑が目的で行なわれるのではなかった。大抵は対象者を辱めて心理的、精神的に苦しめることを目的としていた。そのため、耳や鼻を削がれると大抵の罪人は許されて助命されていたほうが多かった。だが、屈辱を生涯を通じて与えるという意味ではかなりの効果があり、日本では名のある武将や高位の者がこの刑に処されることはかなり稀であった。

実用例[編集]

日本では豊臣秀吉の時代にこの刑がよく行なわれた。どうも秀吉はこの刑が好みだったようで、まだ織田信長の家臣だった羽柴秀吉の名乗りの時代に、浅井長政を滅ぼした際にその生母の小野殿が捕縛されたが、その処刑の際に小野殿の指を切り落として処刑したという。天正18年(1590年)の小田原征伐の際には、千利休の高弟である山上宗二が秀吉に自らと後北条氏の助命嘆願を行なうが、これが秀吉の怒りを買って宗二は耳と鼻を削がれてしまう。普通ならここで許すのだが、秀吉はそれに飽き足らず、宗二をその後は処刑場に引き立てて斬首に処し、その首を晒すという命令まで出している。つまり、耳と鼻を削がれた哀れな首級が晒されたのである。

さらに秀吉は朝鮮出兵を行なうが、その際に日本兵に対して現地の朝鮮の住民の鼻や耳を大量に切り取らせて塩漬けにして日本に送らせる命令も出している。

他にもキリシタンの弾圧で使用された記録もある。これは受刑者の、手足の指、両腕など身体のあらゆる部分を少しずつ切断してゆくもので、当時の医療技術だと血止めの処置が悪い場合も多く、そのため処刑の最中に死亡する例も多かったという。また、ある程度切断したら処刑をやめてその悲惨な姿の受刑者を市中に引き回して見せしめにすることも多かったという。これは刻み責め(きざみぜめ)と記録には記されている。

外部リンク[編集]