共産主義者同盟戦旗派
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共産主義者同盟戦旗派(きょうさんしゅぎしゃどうめいせんきは)は、共産同系の新左翼党派。通称は戦旗両川派、戦旗西田派、共産同戦旗派など。
組織[編集]
- 指導者:両川敏雄(筆名:西田輝)
- 傘下団体:全国労働者共闘会議、日本反帝戦線、叫革青年同盟、侵略反革命と戦う障害者青年同盟
- 本部所在地:東京都品川区品川郵便局私書箱6号(連絡先)
- 機関紙:『戦旗』(半月刊)
- 機関誌:『同志』[1]
- 勢力:立花書房の出版物によれば1985年時点で約200名[1]、『昭和63年 警察白書』によれば約400名[2]
概要[編集]
1972年5月13日に「共産主義者同盟(戦旗派)」(後の荒派、日向派)は神田周辺で大規模な火炎瓶闘争を行ったが(御茶の水解放区闘争)、この闘争で128名もの逮捕者を出したことで指導部の責任を巡り内紛が激化した。その中で武装闘争重視路線の両川敏雄と組織建設重視路線の荒岱介が対立し、1973年6月に「共産主義者同盟(戦旗派)」から分裂して「共産主義者同盟戦旗派」(両川派、西田派)が結成された[3]。
三里塚闘争や反天皇制闘争などで多数のゲリラ事件を引き起こした。とりわけ1975年7月17日に沖縄解放同盟準備会と共闘して訪沖した皇太子明仁親王(当時)および同妃美智子に向けて火炎瓶などを投擲した「白銀病院事件」「ひめゆりの塔事件」が有名である。1983年に三里塚芝山連合空港反対同盟が分裂してからは北原派を支持している。1988年に同じく北原派を支持する中核派・革労協と「三派共闘」を結成している[4]。
外山恒一による活動家へのインタビューによると、1980年代の西田派はどちらかといえば西日本で勢力を有し、九州・山口では熊本大学・北九州大学・山口大学が拠点校だったという[4]。
1991年頃から同じ共産同系の党派である「共産主義者同盟(全国委員会)」(通称:烽火派)と連携し始め、烽火派と同じく「国際連帯」を主張するようになった[4]。2004年4月に烽火派と統合し、新たに「共産主義者同盟(統一委員会)」を結成した[5]。