劉琮 (後漢)
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劉 琮(りゅう そう、生没年不詳)は、中国の後漢末期の群雄・政治家。劉表の跡を継いで荊州刺史となるが曹操に降伏して家臣となった。
生涯[編集]
劉表の庶子[1]。母は不明[1]。妻には蔡氏の姪を娶ったとある(『後漢書』)。蔡氏をはじめ、その弟の蔡瑁や外甥の張允らは劉琮を後継者にしようと様々な政治工作を行ない、異母兄の劉琦を江夏郡太守に転出させた[1]。208年に劉表が病死すると跡を継ぐが、この頃に華北を制した曹操が大軍を率いて南下を開始し、劉琮は戦おうとしたが蒯越・傅巽・韓嵩・王粲・蔡瑁らの反対で曹操への帰順が国論となり、曹操が荊州に達すると全面降伏し、曹操は劉琮を青州刺史に任命した[1]。
『魏武故事』によると「劉琮は気高い心と清潔な志を持ち、知恵は深く思慮は広大。信義と徳性を重んじる」と曹操が称賛したという。後に劉琮は諌議大夫・参同軍事に任命された。一方で『呉歴』で曹操は孫権の雄姿を見た際、「息子に持つなら孫権のような男を持ちたい。劉表の子など豚か犬だ」と評してもいる。
『三国志演義』では第34回で蔡氏の息子として初登場。208年の時点で14歳と幼く描かれている(史実では成人していたのは明らかとされる[1])。劉表の死後、劉表は遺書で劉琦を世継ぎに指名していたが蔡瑁らの遺書偽造により劉琮が後継となる。曹操に降伏すると青州に移るように命じられ、その途上で用済みとして曹操が派遣した于禁の軍によって母子共々殺された。