作文
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作文(さくぶん)とは、文章を順序立てて作製する行為のうち、情報の伝達を目的とするものである。
ただし、「作文」という言葉は、一般的には肯定的な意味では使われることがほとんどないのが実態である。
概要[編集]
肯定的な意味で使われる稀少な場合としては、
- 自身でブログ立ててエントリを書くこと
- このEnpediaに記事を書くこと[1]
- 理解しやすいマニュアルを書くこと。佐貫亦男によると、ドイツ人の特技であるという。
- 失敗しづらく結果もそれなりに出て、いかにも食欲をそそられるレシピを書くこと。京大式カード(B6サイズ)一枚で、表面はカラーグラビアで裏側は文字説明でモノクロというのが定番である。梅棹忠雄から川喜多次郎という京大学派に伝えられ、フィールドワーカーの間に普及した。映画評論家の荻正弘が著書『男のだいどこ』でスタイルを確立し、「箇条書きだと直感的にイメージをしづらい」というので鮫島正樹が『青ざめたいちごケーキ事件』で複数プロセス記述用のフローチャートを提唱し非ノイマン型のコンピューターのソフトウェアにまで影響を与えた。
なども肯定的な意味での作文である。
小学校・中学校の国語科の単元に作文の設定があり、夏休みの宿題の定番である読書感想文に限らず、日々の日記や各種校外学習の感想文など作文を書く機会は非常に多い。
しかし夏休みの宿題における作文は、語彙力に乏しく文章力の弱い子供相手にとって指定の枚数分の文章を書くというのは酷でしかなく、教員から「修正・やり直し・再提出」を求められるのは当たり前な光景になり、「思ってもいない事を書いて水増しし、規定の枚数のクリアを図る」という事態が恒常化している。
そのため、作文の目的が「偉い人・強い人に気にいられるような文章を書く」(この場合、教師が「私はお前ら生徒よりも偉くて強いんだぞ」という主張であることが多い)にすり替わっており、強権国家における国営メディアにおける提燈記事のような文章になりかねない。こうした教師の行為はいじめの増加という形ではねかえってくるのは当然といえよう。
以上のことから転じて、体裁だけ整っていて中身がない文章を俗に作文と呼ぶ。
例)
- 「あの調書は警察の作文だ」
- 「こんなものは作文でしかない」
なお高等学校の国語教科には作文を含む『国語表現』という科目がある。国語表現は必(修科目ではなく)選択科目であるため、作文が苦手ならば「国語表現を全員履修しなければならない学科やコースを選ばない」という形で作文を回避することができる。
参考文献[編集]
- 川喜多次郎『発想法』
- 荻正弘『男のだいどこ』
- 鮫島正樹『青ざめたいちごケーキ事件』
脚注[編集]
- ↑ ただ、WikiPedia に記事を書くのは「肯定的な意味での作文」には入らないかもしれない。編集者が気に入らなかったら、締め出されるからである。