佐々木禎子

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佐々木 禎子(ささき さだこ、昭和18年(1943年1月7日 - 昭和30年(1955年10月25日)は、日本広島市に住んでいた原爆被爆者であり、原爆の子の像のモデル[1]。「折り鶴の少女」ともいわれる。

概要[編集]

小学校の社会の教科書に登場する人物。幼少時から活発で運動を得意とし、リレーの選手に選ばれるほど足も速かったという。

昭和20年(1945年8月6日広島県の自宅で2歳の時に被爆する。被爆した自宅は爆心地からおよそ1.6キロであった。なおこの際、禎子の兄も被爆している[注 1]

昭和29年(1954年)の健康診断では問題なしと診断されたが、被爆から10年後の昭和30年(1955年)2月16日ABCC(原爆傷害調査委員会)による調査により亜急性リンパ性白血病亜急性リンパ腺白血病と診断された。広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)で入院した。ただし、佐々木本人には告知されないままの入院だった。佐々木は家族に治療費の負担をかけないようにするため、激痛に耐え続けたという。

昭和30年(1955年)5月、入院中の大倉記代(当時14歳)と同室になった。同年8月に高校生から広島赤十字病院に折り鶴が贈られたことをきっかけに、千羽鶴を折ると元気になれると信じ、大倉記代とともに鶴を折り始めた。折った鶴は8月下旬に2人とも千羽に達し、大倉は退院した。なお、折った千羽鶴は薬の包み紙などで折られたものもあったという。

奇しくも原爆から10年後の8月6日には禎子は歯茎から出血するようになった。「最後は何が食べたい?」と父親にきかれ、「お茶漬けが食べたい」といい、父親がお茶漬けを急いでつくって、禎子に一口二口食べさせると、「おいしかった」といい、その直後に亡くなり、12歳の短い生涯を閉じた。

平成16年(2004年7月25日国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

死後に書かれた佐々木禎子を題材とした、エレノア・コア『サダコと千羽鶴』[2]、カール・ブルックナー『サダコは生きる』[3]は世界で読まれている。

佐々木の遺族により、死後に「平和の架け橋に」と遺品の19羽をアメリカ・ハワイ真珠湾など国内外に寄贈し、広島市原爆資料館には約100羽の鶴が残されている。

逸話[編集]

禎子は非常に優しく他人想いで、うどんを好物にしていた兄のために「兄ちゃん、うどん食べに行こう」と病院地下の食堂に食べに行ったりした。また、最期の言葉も別説として「みんなありがとう」と周りに気遣ったものであったという。

令和5年(2023年)5月G7広島サミットで、岸田文雄首相や被爆者により、禎子の物語が各国の参加者に語られ、さらに禎子が折った1羽を忠実に再現したステンレス製の複製品が贈呈されるなど、日本政府や広島県などの支援により、禎子の国際的認知度が高まっている。

脚注[編集]

注釈

  1. この兄は令和5年(2023年6月時点で81歳で存命である。なお、この兄の次男がシンガーソングライター佐々木祐滋である。

出典

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  1. 佐々木禎子の生涯
  2. Eleanor Coerr(2004)"Sadako and the Thousand Paper Cranes",Puffin Books
  3. Karl Bruckner(2005)"Sadako Will Leben",G + G Buchvertriebsges.