二見五条藩
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二見五条藩(ふたみごじょうはん)は、大和国二見城(現在の奈良県五條市二見)に江戸時代初期のわずかな期間だけ存在した藩。別名に五條藩、五条藩、五條二見藩とも言われる。藩主家は外様大名の松倉氏。石高は1万石。
概要[編集]
『恩栄録』では「二見五条」という藩名と石高1万石、藩主の名に松倉豊後守重政と挙げられている。
松倉重政は松倉重信の子で、伊賀上野藩主の筒井定次に仕えて関ヶ原の戦いで功績を挙げ、伊賀国梁瀬に8000石の知行を与えられていた。慶長13年(1608年)に定次が改易された際、重政もその所領を徳川家康によって没収されたが、後に召し出されて大和国宇智郡二見五条において1万石を与えられ、二見五条藩を立藩した。
重政は大坂の役においても徳川方として武功を挙げたので、元和2年(1616年)に肥前島原藩4万3000石に加増移封され、二見五条藩は廃藩となった。
歴代藩主[編集]
- 松倉家
外様。1万石。
- 松倉重政(しげまさ)