串刺し刑
串刺し刑(くしざしけい)とは、日本の磔刑のひとつである。磔刑の中でも逆磔に次ぐ残虐刑で知られている。
概要[編集]
この串刺し刑の発祥は古代のエジプトであるという説がある。それがどう日本に伝わったのかは不明であるが、日本ではこの串刺し刑をさらに改良して独自に進化させた。この串刺し刑は見せしめの効果を高めるためによく行なわれ、戦国時代には裏切り者、謀反人に対する処刑方法として採用されていた。
古代ヨーロッパでは尖った杭を立てて、その上に罪人を乗せて自分の体重で肛門からズブズブと貫いて処刑するようにしたという。日本ではこの方法が改良され、磔柱に足を大きく開かせて縛り付け、死刑執行人が槍で用いて肛門から口をめがけて一気に貫くという処刑法であった。逆磔の場合、死ぬまで地獄の苦しみを味わうが、この串刺しの場合は大抵はすぐに死ぬことになる。ただし、それは死刑執行人が熟練した技術の持ち主の場合であり、もし下手な死刑執行人が行なえば、対象者の骨などで途中に引っかかったり、角度を間違えて槍先が脳天や口ではなく、腹部から槍が出てきたりしたこともある。そして、このような失敗の場合は対象者は地獄の苦しみを長きにわたって味わうことになる。そのため、わざと執行を失敗させて対象者に苦しみを与える場合もあったという。
熟練した死刑執行人ならば、見事に一突きで口や肩口のあたりまで貫いて瞬時に対象者は絶命する。だが未熟な死刑執行人の場合は何度も突き刺したりして対象者の内臓をグチャグチャにかき回して血を吐きもがき苦しんで絶命することになるのである。また、串刺し刑に使用するために槍の矛先や柄を細くして貫きやすくした特性の槍が処刑に使用されることも多かった。
この串刺し刑は「田楽刺し」とも称される。細い槍に貫かれた遺体が田楽の具のように見えたからであるとされている。
採用例[編集]
戦国時代、この処刑方法はよく採用された。主に人質や敵将の家族の殺害など見せしめの要素が多かった。天正元年(1573年)に織田信長が浅井長政を小谷城の戦いにおいて滅ぼした際、長政の嫡男である万福丸が捕縛された。当時、敵将の嫡子は復讐や後世の災禍を恐れて殺害されるのが通例であり、長政の正室であった信長の妹であるお市の方の助命嘆願も空しく、万福丸は関ヶ原において串刺しで処刑されたという。なお、この万福丸処刑の奉行を担当したのが、木下藤吉郎と名乗っていた後の豊臣秀吉であったという。