上泉泰綱
上泉 泰綱(かみいずみ やすつな、? - 慶長5年9月29日(1600年11月4日))は、戦国時代の武将。名は上泉 主水(かみいずみ もんど)で知られる。会津一刀流剣術の開祖。
来歴[編集]
出自については諸説あるが、通説によれば剣豪として有名な上泉信綱の嫡男秀胤の子とされる。秀胤は深江上杉氏に仕えていたが、主家の没落により後北条氏に仕え、第2次国府台合戦で戦死した。その後に泰綱が家督を継ぐが、天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が没落すると浪人になったとされている。
従来では関ヶ原の戦いの直前に関東の浪人として上杉景勝に招かれて仕官したとされていたが、実際には慶長3年(1598年)に景勝が会津に移封された時点で仕えていたという。元は関東管領・上杉家の一族を主家としていたため、泰綱は景勝から譜代として厚遇を受け、関ヶ原直前に召し抱えられた浪人衆とは一線を画する存在で、知行高も1500石と高禄で、組下の士卒も相当数抱える有力武将だった。慶長5年(1600年)に徳川家康による会津征伐が開始されると、仙道筋に配置されて伊達政宗、そして政宗に扇動された一揆と戦う。その後、直江兼続による最上義光攻めが始まると出羽国米沢城に移動し、その指揮下に入って志村高安が守る長谷堂城攻めに参加した。
志村はわずかな兵で奮戦し、直江は水の手を断つ作戦に出た。すると志村は城内から突出して攻撃し、味方の危機を見た泰綱は単騎で飛び出したが、組下の者と離れてしまって孤軍奮闘せざるを得なくなり、その中で討ち死にしたという。ところが、志村はまさか敵の大将がこんな場所で孤軍奮闘するわけがないと最初は泰綱を討ち取ったことに気づかず、戦後に上杉側から泰綱の首級返還を求められて初めて泰綱を討ち取ったことに気付いたという逸話が軍記ではあるが紹介されている。また、このときの組下の稚拙な動きに前田慶次が叱りつけたという逸話もある。
子孫は上杉氏にそのまま仕えて明治維新に至っている。