七奪

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七奪(しちだつ)とは、韓国日韓併合において日本が当時の朝鮮半島から7つの物を奪った、と主張しているものである[1]。韓国ではこの七奪を高校の指定教科書に「日本は韓国から大切な7つの物を奪った世界でも類を見ない悪辣な帝国主義者である」と記しており、韓国人は10歳代からこのことを徹底して学ぶことになっている[1]。そして、この七奪のために現在まで韓国が日本に国力その他で劣っている原因とまで位置づけられている[1]

概要[編集]

七奪とは[編集]

異論[編集]

主権について[編集]

そもそも朝鮮半島に主権など存在していなかった。朝鮮半島はそもそも中国の属国であり、それが世界の常識であった[2]李氏朝鮮の古い国旗にすら「大清国属」とあり、19世紀の清の実力者・李鴻章によって編纂された『通商章程成案彙編』に収録されている太極旗には清の国旗と軍旗、商船旗の次に朝鮮の国旗が位置づけられているほどである。また、李氏朝鮮では中国王朝の元号がそのまま使用されていた[3]

さらに言うと、朝鮮は中国の属国の中でも下位扱いされていた。17世紀の記録であるが『渓陰漫筆』には「天朝(中国の皇帝)の朝賀の席で、他の属国の使臣が赤色の礼服を着ることが許されていたのに対し、朝鮮の使臣だけは黒色の丸首の衣であった」「琉球の使臣は駕籠に乗って宮廷に入ることが許されていたが、朝鮮の使臣は駕籠に乗ることを禁じられていた」とある[3]

朝鮮半島はの時代に次のような要求もされていた。

  • 朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
  • 朝鮮国内の事件は全て清の皇帝に報告しなければならない。
  • 朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
  • 朝鮮国王の地位は清の廷臣より下位である。
  • 朝鮮政府に貨幣の鋳造権は認めない。
  • 朝鮮政府が清に対して食糧や兵力を要求する権利は無い。
  • 朝鮮は毎年、清に細かく定められた穀物と、牛を3000頭、馬を3000匹、各地の美女3000人を選抜して貢がなければならない。

他にも、朝鮮国王が清の皇帝に対して奉呈した文書においてたった1か所、気に入らない文書があっただけで銀1万両を罰金として支払わされた記録もある[4][5]。また、朝鮮国王は清の使者をソウル城門の迎恩門で出迎える際、「三跪九叩頭の礼」で迎えることも義務付けられていた。ちなみに朝鮮と言う国名であるが、1392年李氏朝鮮が成立した際、李成桂が国号変更を考えて「朝が静かな国」という意味の朝鮮と、「平和の国」という意味の和寧の2つの候補にして、当時のの皇帝に選んでもらったところ、朝鮮が選ばれたという。ただし、明側が朝鮮を選んだのは「貢物(朝)が少ない(鮮)」という意味で選んだと言われている。

このように日韓併合前の朝鮮は完全な中国の属国であった明治時代になり、アジアにまでヨーロッパ列強の脅威が迫ると、朝鮮半島にロシアの脅威が近づきつつあってそれに備える必要性に迫られていた日本は、朝鮮対策を考えていた。1894年日清戦争が起こり、1895年下関条約で日本は当時の李氏朝鮮の独立を清に認めさせた。これにより、李氏朝鮮は近代国際法に基づく独立主権国家となった。後に李氏朝鮮は大韓帝国と名を改め、清の朝貢・臣従要求から解放されることになった。この際、大韓帝国は清の使者を出迎える際の迎恩門を壊して代わりに独立門を建設したが、なぜかこの独立門は現在、日本からの独立を記念して建設された門として見られているという[6][7]

日清戦争後、大韓帝国では近代化が行なわれたが遅々として進まず、ロシアの脅威がなおも迫りつつあった。朝鮮半島がロシアの支配下に置かれた場合、日本の安全保障が極めて危険な状況に陥るため、1904年から日露戦争が始まる。この戦争は欧米の予想を覆して日本海海戦で勝利を収めた日本の勝利に終わり、1905年に諸外国の承認を得て大韓帝国を保護国とした。これはあくまで法的に、また諸外国からも承認された上で保護国としたのである。なぜ、諸外国が大韓帝国を日本の保護国とするのを承認したのかというと、1866年丙寅洋擾1871年辛未洋擾で小競り合いがあった際に李氏朝鮮軍はほとんど戦おうとしないし、日清戦争や日露戦争でも自国を守るために働こうとしなかったため、とされる[8][9]

日本政府は大韓帝国に統監府を置いて保護国の下で監督したが、1909年に初代統監の伊藤博文が朝鮮人の安重根暗殺されると、大韓帝国の日本への併合への機運が高まった。これには朝鮮人の中にすら併合を歓迎する機運が高まっていたという。そして1910年に日本政府、大韓帝国政府の合意の下で日韓併合が行なわれたが、これは武力を伴って行なわれたものではない。あくまで政治的に平和裏に行なわれたものである。なおこの際、この日韓併合に他の国は反対せず、好意的に承認している。この併合について日本は各国に外交官を派遣して説明させてもいる。

すなわち、日本はまず韓国に主権を与えて清から解放した。そして日韓併合は当時は国際的に合法であり、多くの朝鮮人からも望まれていたことなのである。日本は韓国から主権を奪ったわけではなく、むしろ自ら放棄して日本に譲渡した、と言えるのである[10][11]

脚注[編集]

  1. a b c 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)102ページ
  2. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)103ページ
  3. a b 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)104ページ
  4. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)105ページ
  5. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)106ページ
  6. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)107ページ
  7. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)108ページ
  8. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)109ページ
  9. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)110ページ
  10. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)111ページ
  11. 『今こそ、韓国に謝ろう』(百田尚樹著。2017年6月。飛鳥新社)112ページ

参考文献[編集]