最後の晩餐 (ダ・ヴィンチ)

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最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

最後の晩餐(さいごのばんさん、英: The Last Supper、伊:Il Cenacolo/L'Ultima Cena)はレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画である。

概要[編集]

ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれたもので、西洋で最も広く知られている絵画の一つである。ただしダ・ヴィンチが描いたときは食堂ではなかった。修道院の主教会は1498年に完成したばかりであった。ダ・ヴィンチは『最後の晩餐』を1495年に着手し、1498年に完成させた。大霊廟に改装する計画があったため、その目玉となる壁画として依頼された。依頼主は、当時にミラノを統治していたスフォルツァ家の当主であるルドヴィコ・スフォルツァであった。

視覚的効果を企図する構図、臨場感を与えるダイナミックな表現、光線の効果、心理描写などに特徴がある。新利用者では『最後の晩餐』における十二使徒の表情と一人一人の心理の描き分け、ダ・ヴィンチは各使徒の性格の違いに起因する反応動作の違いを描き分けている。キリストは伝統的な赤と青のローブを身に着けている。しかしダ・ヴィンチは当時において慣習的描画であった後光(光輪、光背)を描いていない。ある学者は、キリストの背後の窓からの光が後光の役割を果たしていると述べている。視覚的効果では一点透視図法により空間の奥行きのある広がりを実現している。またキリストの着衣の赤と青など反対色の組み合わせにより効果を出している[1]

場面[編集]

キリストが受難の前日の夜に十二弟子とともにとった晩餐の場面が新約聖書に記されている。キリストは「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」(「ヨハネによる福音書」13章21節)と語り、受難時には使徒達が四散すると予告する(「マルコによる福音書」14章27節)。ペテロは「鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」(「マルコによる福音書」14章30節)と告げられ、ペテロは強く否定する。ユダは裏切者らしく、引いた姿勢である。ユダの右手にはイエスを売り渡して得た銀貨を入れた袋が握られている。ペトロは立上ってナイフを握る右手を腰に当てている。『ヨハネによる福音書』ではイエスが捕えられるときに追手の一人の耳を切り落としたとして描いており、そのことを暗示している。

弟子がイエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、だれのことですか」と言うと、イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答え、イエスは答えられた。そして、一きれのパンをひたして、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。(「ヨハネによる福音書」13章24節から26節)。このように書かれているが、イエスに寄りかかっているものは誰もいない。イエスから向かって左側には「イエス、ヨハネ、ユダ、ペテロ」の順に並んでいる。イエスがユダに立ち上がらずにパンを渡すためには、イエスから近い位置にいなければならないからである。それまではユダを手前に座らせる構図もあったが、ユダを群の中に入れることにより、ダ・ヴィンチは使徒の群を左右に均等に配置できた[2]

最後の晩餐は、ユダヤ教の儀式に即して行われるため、本来は子羊の肉を食べる。つまり食卓の上にはパンとワイン、羊が置かれるのが通常であるが、ダ・ヴィンチは羊の代わりに魚を置いている。また儀式で使用するパンには酵母を入れないので膨らんでいない。しかしダ・ヴィンチはパンを膨らませて描いている。これらは視覚的効果を意図したものである。

世界遺産[編集]

1980年に「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」として世界遺産(文化遺産)に登録された。

現地の状況[編集]

キリストや12使徒たちの表情をよく見るためには双眼鏡を持参するとよい。キリストの下に四角い部分があるのは、絵が完成した後で、出入り口を作ったためであるという。見学するときは事前予約が必要である。閲覧時間は15分と限られている。 『最後の晩餐』の反対側の壁にはジョバンニ・ドナート・モントルファーノの『磔刑図』が描かれている。

諸元[編集]

外部リンク[編集]

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  1. 高松智子(2005)「「鑑賞・評論の視点」、「創作・心理療法の視点」、「色彩学の視点」」日本色彩学会誌. 29(1)
  2. 澤木四方吉(1942)『西洋美術史論攷』慶応出版社