ヤマニンセンプー

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ヤマニンセンプー
画像募集中.png
現役期間1987年~1992年[1]
品種アングロアラブ(アラブ血量26.90%)[1]
性別[1]
毛色鹿毛[1]
生誕1985年5月12日[1]
死没不明(1993年10月用途変更)
抹消日1992年9月7日[2]
トライバルセンプー[1]
ヤマニンパナール[1]
母の父トモスベビー[1]
生国日本国旗.png日本北海道門別町[1]
生産中原牧場[1]
馬主荻野曉
片山公三
大賀強[1]
調教師白津壽己福山
御神本修益田
田原義友(益田)[1]
競走成績
生涯成績56戦17勝[1]
獲得賞金770万8000円[1]
 
勝ち鞍
人磨特別(1992年)

ヤマニンセンプー1985年5月12日 - 不明)は、日本競走馬繁殖牝馬[1]1992年人磨特別の勝ち馬である。

競走馬時代[編集]

3歳(1987年)[編集]

1987年11月3日福山競馬場にてデビュー。2戦目にて新馬勝ちを収める。次走のアラ系3才で4着を取った後休戦。年別累計成績は3戦1勝。

4歳(1988年)[編集]

4歳になったヤマニンセンプーは、1月5日1月17日1月30日と厳しいローテーションが組み込まれ、初戦こそ白星をあげるも、次走以降10着、5着と勝ち星から遠ざかる。以降大きく間が空き、10月から戦線に復帰。出走ペースが見直されたこともあり、復帰後の10月24日11月27日にそれぞれ白星をあげる。年別累計成績は8戦3勝。

5歳(1989年)[編集]

古馬初戦は1月4日のC2級アラ系一般。人気に応え1着で入線するも、次走C2級ガーネット賞では4番人気の7着。以降のC2級アラ系一般でも、年末までに計16戦するも勝ち星は1つのみ。結局ヤマニンセンプーは、目立った活躍を残すことができず12月24日のレースを最後に益田競馬場へ移籍。年別累計成績は18戦2勝。

6歳(1990年)[編集]

益田競馬へ移籍したヤマニンセンプーは御神本修厩舎のもとで3月から始動。移籍後初戦から2連勝を記録。月2ペースでのローテーションのもと一般競走と特別競走に出走し振り幅の大きい結果を残した。年別累計成績は14戦5勝。

7歳(1991年)[編集]

7歳初戦は3月24日の混合一般。年末の好走も響かず4番人気の4着。なお、このレース以降御神本修厩舎から田原義友厩舎へ移籍。5月まで凡走を続けたヤマニンセンプーは約3ヶ月間の休養に入る。8月下旬に復帰して1着、次走では3着に敗れるも9月30日から年末にかけて4連勝を記録。年別累計成績は10戦5勝。

8歳(1992年)[編集]

1月4日には自身初の重賞競走人磨特別に出走。2番人気に推されるも2着馬と6馬身もの差をつけ快勝。初の重賞制覇を成し遂げる。次戦は約1週間後のアラ系一般。4番人気に支えれるもニホンカイスバルの8着と撃沈。その後は間が空き4月12日のアラ系一般3着を最後に現役を引退、繁殖入りをする。年別累計成績は3戦1勝。

競走成績[編集]

繁殖牝馬時代[編集]

引退後ヤマニンセンプーは1993年から繁殖牝馬として供用された。1993年5月10日、マサノゲンスイとの交配による初仔を出産した。続けてミスターハゼオーと交配するも不受胎に終わる。ミスターハゼオー交配以降繁殖牝馬を引退、その後の動向は不明。

繁殖成績[編集]

馬名 誕生年 毛色 厩舎 馬主 戦績 備考
初仔 マサノセンプー 1993年 鹿毛 マサノゲンスイ 益田・椋木幹雄 豊田武 36戦4勝 (引退)
(不受胎) ミスターハゼオー

血統表[編集]

ヤマニンセンプー血統 (血統表の出典)

トライバルセンプー
Tribal Sempu
1977 鹿毛
父の父
トライバルチーフ
1967 黒鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Mwanza Petition
Lake Tanganyika
父の母
インターシユウホウ
1973 栗毛
インターナシヨナル ライジングフレーム
テツノヒビキ
シユウホウ 久艶
有汎

ヤマニンパナール
1976 鹿毛
トモスベビー
1953 黒鹿毛
トシシロ ダイオライト
月城
スルガ 方景
念原
母の母
パナール
1962 鹿毛
セイユウ ライジングフレーム
弟猛
ヒツタライト ニューバラツケー
昭晃


脚注[編集]

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  1. a b c d e f g h i j k l m n o ヤマニンセンプー”. JBISサーチ. 2022年3月10日確認。
  2. ヤマニンセンプー 出走履歴

外部リンク[編集]