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ポーランド侵攻
ポーランド侵攻 | |
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戦争: 第二次世界大戦 | |
年月日: 1939年9月1日 - 9月17日 | |
場所: ポーランド | |
結果: ドイツ・スロバキアとソビエト連邦の勝利。ポーランドは分割される。 | |
交戦勢力 | |
指揮官 | |
ドイツ国 フェードア・フォン・ボック ゲルト・フォン・ルントシュテット ゲオルク・フォン・キュヒラー ギュンター・フォン・クルーゲ ヨハネス・ブラスコヴィッツ ヴァルター・フォン・ライヒェナウ ヴィルヘルム・リスト コンラート・アルブレヒト スロバキア フェルディナンド・チャトロシュ ソビエト連邦 ミハイル・コワリョフ セミョーン・チモシェンコ ワシーリー・チュイコフ フィリップ・ゴリコフ イワン・チュレネフ |
ポーランド エドヴァルト・リッツ=シミグウィ ヴワディスワフ・ボルトノフスキ ユリウシュ・ルンメル アントニ・シュリング カジミェシュ・ファブリシ ステファン・ドンプ=ビェルナツキ |
戦力 | |
2,967,000人 | 950,000人 |
損害 | |
戦死者17,098人 負傷者29,299人 |
戦死者66,000人 負傷者133,700人 |
ポーランド侵攻 (ポーランドしんこう) とは、ドイツ国、ソビエト社会主義共和国連邦およびスロバキア独立国によって行われた第二次世界大戦におけるポーランドへの侵攻である。
概要[編集]
戦争以前[編集]
ドイツとポーランドでは、ドイツがナチスにより政権が握られると、1934年ドイツ・ポーランド不可侵条約を結ぶが、オーストリア併合、ダンツィヒ(現在のグダニスク)併合などの事件により、ポーランドとドイツの友好的な関係は薄れていく。
1939年にドイツがチェコを併合しチェコスロバキアを解体すると、イギリスはそれに対して猛反発し、ポーランドに保障を与えることとなった。4月には、ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄した。英仏側からもドイツ側からも当時はソビエトを自陣に入れようと試みていたが、ソ連はドイツ側に入り、独ソ不可侵条約を結んだ。
侵攻[編集]
ヒトラーは、9月1日、グライヴィッツ事件という自作自演の事件を起こし、ポーランド国内でのドイツ人の迫害や16箇条の要求に大して無返答したとして、それを理由にポーランド侵攻を軍に命じた。これが第二次世界大戦の始まりとされることが多い。9月3日には、英仏もドイツに宣戦布告した。
この際ポーランド陸軍は防衛準備ができていなかったため、どんどん押し戻されてしまう。9月中旬にはポーランド軍は反撃であるブルザの戦いで失敗。そのためドイツ軍に有利となった。だが、9月17日、ソビエトがポーランド侵攻を開始する。それは完全に不測の事態であったために、ポーランドはそれによりどんどん侵攻されていった。ポーランド軍総司令官エドヴァルト・リッツ=シミグウィ元帥は国土の防衛はこれ以上不可能とし、兵士にはハンガリーかルーマニアに脱出するよう命じた。主要なポーランドの人物は、ルーマニアに脱出した。
9月17日から9月29日まではワルシャワがドイツ国防軍により包囲され、その後ワルシャワが陥落する。10月6日には完全に戦闘が終了し、ドイツとソビエトはポーランドを分割した。