コスモドリーム
お知らせ |
この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。詳しくはwp:ja:馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。 |
コスモドリーム | |
---|---|
欧字表記 | Cosmo Dream |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牝 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1985年6月13日 |
死没 | 不明 |
父 | ブゼンダイオー |
母 | スイートドリーム |
母の父 | ラッキーソブリン |
生国 | 日本(北海道白老町) |
生産 | 上田牧場 |
馬主 | 田邉廣己 |
調教師 | 松田博資(栗東) |
競走成績 | |
生涯成績 | 13戦4勝 |
獲得賞金 | 1億5650万3300円 |
コスモドリーム(1985年6月13日 - 死没不明)とは、日本の競走馬・繁殖牝馬である。
血統背景[編集]
父・ブゼンダイオーは1974年生の牡馬。全兄のホウシュウミサイルは74年金鯱賞・小倉記念を制しており、競走馬として期待された。3戦目で勝ち上がり、毎日杯に出走するも7着でクラシックへの切符は得られなかった。結局10戦3勝という平凡な成績で競走馬を引退した。
現役時代に優秀な成績を収め、種牡馬としても期待されたホウシュウミサイルが急死しており、ブゼンダイオーは1981年から種牡馬入りしていた。しかしほぼ血統だけで種牡馬入りしたために人気に乏しく、生産牧場である上田牧場の所有する牝馬に付けるだけ。メインの仕事は牝馬の発情確認である当て馬だった。付ける牝馬の質もお世辞にも良いと言えず、年間交配数は片手で数えられるほどであったという。
母・スイートドリームは荻伏牧場で生まれた。未出走のまま上田牧場にて繁殖入りしたが、気が非常に荒く、頻繁に種付け相手の牡馬を蹴飛ばそうとする行動を頻発させ、もしも良血の種牡馬を怪我させでもしたらとんでもない事態を招くことは想像に容易かった。牧場は自棄のやん八でブゼンダイオーとスイートドリームを交配させ、スイートドリームの85が生まれた。スイートドリームの85は大阪府の開業医、田邊廣己に購買されてコスモドリームの競走名を与えられた。
生涯[編集]
4歳となった1988年1月10日にデビュー戦を迎える。初戦3着となり、中1週で迎えた新馬戦で初勝利を収める。その後梅花賞で3着、チューリップ賞では競走中止となるも条件戦で2着。4月のはなみずき賞で2勝目を挙げ、5月の優駿牝馬を迎えた。優駿牝馬は22頭立て、単勝10番人気と決して期待されている訳ではなかった。しかしコスモドリームは2着マルシゲアトラス(11番人気)に1馬身半差をつけ、人気を集めていたアラホウトク、シヨノロマン相手に勝利。鞍上を務めた熊沢重文は史上15人目となる優駿牝馬初騎乗初優勝を果たした騎手だが、この時の熊沢は見習騎手という立場。見習騎手が優駿牝馬で勝利するのは史上3人目、戦後では初のこととなった。
夏の間はローカルで出走。オグリキャップと対戦したこともあるが勝っていない。小倉記念ではプレジデントシチーと激しい一騎打ちの末に2頭ほぼ並んでゴールイン。写真判定に持ち込まれ、プレジデントシチーがハナ差で先着と認められ、2着となった。
秋はエリザベス女王杯を目指して京都大賞典より始動するも、逃げるメイショウエイカンを捉えられず、3馬身離されての2着となった。レース2日後に骨折が判明し、エリザベス女王杯出走回避と年内休養が決定。1989年4月のオーストラリアトロフィーより復帰して勝利、6月の宝塚記念では5番人気に支持されるも14着に沈む。その後高松宮杯へ出走するも9着に沈んで引退した。
引退後は下河辺牧場で繁殖入り。1996年からは鵡川町のフラット牧場に移動して繁殖活動を続けていたが、2007年に繁殖を引退。2009年4月に用途変更となり、以後の行方は知られていない。