ガイハトゥ
ガイハトゥ(1271年 - 1295年3月26日)は、イル・ハン国の第5代君主(在位:1291年7月23日 - 1295年)[1]。イル・ハン国で初となる紙幣を発行したことで有名であるが、これが原因で逆に経済が大混乱する。またガイハトゥ自身放蕩と乱費を繰り返すなど悪政を重ねたため、クーデターにより廃位されて処刑された。
生涯[編集]
即位[編集]
父は第2代君主のアバカ[1]。母はヌクダイという[1]。第4代君主のアルグンは腹違いの兄である。なお、チベット仏教徒の名前であるリンチェン・ドルジ(貴重な宝石を意味する)を名乗ったという[1]。
1291年5月10日にアルグンが亡くなると、ガイハトゥは後継者候補の一人として推された[1]。ガイハトゥ以外ではアルグンとガイハトゥの従弟であるバイドゥ、アルグンの嫡子であるムハンマド・ガザンがいた[1]。この3人のうち、クリルタイでアミール(軍の司令官)の支持を受け、さらにアルグンの正妃であったウルクをはじめとする王家の女性の支持を得たガイハトゥが後継者に選ばれた[1]。
失政[編集]
ガイハトゥの治世で最初に行われたことは、父のアバカの時代に仕えていた宰相を殺害した一派に慈悲を与え、さらに自らに対して謀反を企てたりしたサドルッディーン・ザンジャーニを牢獄から釈放して宰相に任命するなど自らの基盤を固めるために過ぎる寛大な処置を与えたことから始まった[1]。対外政策ではエジプトのマムルーク朝との戦いが続いて一時イル・ハン国はユーフラテス川まで侵攻されてバグダードも危機的状況になったこともあった[2]。さらに東欧を支配していたキプチャク・ハン国とは1294年に和平を結んで友好関係を築いている[2]。
ガイハトゥの個人的な性格について『年代記』では「王が興味をひかれるのは放埓な暮らしと娯楽と肉欲にふけることだけ」「考えることといえばいかにして貴族の息子や娘を我が物にするかということで、手に入れた子女たちと性交な交わりを持つこと以外、他に何もない」「(余りに王の行状が酷すぎるので)妃や貴婦人のうち、貞淑な女性たちは王の下から逃げ出した。息子や娘を連れだして遠い地方へ移住させる人々もいた。だが王の手から逃れることも王が耽溺した恥ずべき行為からも逃れることはできなかった」と散々な評価をしている。この王の時代は放蕩と乱費により国が大いに乱れた[2]。
ただし、それ以外に国を大混乱に陥れたとして有名なのが「紙幣の発行」である。当時、中国を支配していた元のフビライが交鈔という紙幣を発行していた[2]。ガイハトゥはフビライが派遣した元朝の使者と相談した上で、自らもチャーオという紙幣を発行することを決めた[2]。これはガイハトゥ自身の乱費や疫病の流行なども理由であったのではないかとされている[2]。だがこの紙幣発行はこれまでの通貨の信用を下落させ、交易を停滞させてしまったので、発行からわずか2か月後には廃止せざるを得なくなった[2]。これは中国以外の国で最初の木版印刷の事例でもある[2]。
最期[編集]
このように失政を重ねた結果、ガイハトゥに対する不満は各地から噴出した。だが、軽率な行動が多かったガイハトゥは自ら死を招いた。1294年の冬あるいは1295年の年明けにしたたかに酔っぱらっていたガイハトゥは、従弟のバイドゥを召使に命じて殴らせるという侮辱するような行為を行なったという[2]。これにプライドを傷つけられたバイドゥは激怒して反乱を起こし、この反乱によりガイハトゥはバイドゥ側のアミールによって捕縛されてしまった[2]。そして1295年3月26日、バイドゥやそのアミールらによって弓の弦で絞殺されたという[2]。享年24という若さであった[2]。
宗室[編集]
『集史』「ゲイハトゥ紀」によると、アルグンには男子は3人、女子も4人いたという。
父母[編集]
- 父 アバカ
- 母 ノクダン・ハトゥン
后妃[編集]
側室[編集]
- ナナイ?
- エセン
男子[編集]
- 長男 アラーフランク 母 ドンデイ・ハトゥン
- 次男 イーラーン・シャー 母 同上
- 三男 チン・プーラード 母 ウルク・ハトゥン
女子[編集]
- 長女 オラ・クトルグ 母 アーイシャ・ハトゥン
- 次女 イル・クトルグ 母 同上
- 三女 アラ・クトルグ 母 同上
- 四女 不詳[9]
脚注[編集]
- ↑ a b c d e f g h 『ムガル帝国歴代誌』35頁。
- ↑ a b c d e f g h i j k l 『ムガル帝国歴代誌』36頁。
- ↑ ジャライル部族出身でフレグの臨終に立ち会った側近のひとりイルゲイ・ノヤンの一子トゥグの娘。
- ↑ 同じくジャライル部族出身のイルゲイ・ノヤンの子でゲイハトゥの筆頭部将アク・ブカの娘。
- ↑ コンギラト部族出身のクトルグ・テムルの娘。
- ↑ ケルマーン・カラヒタイ朝の第3代当主クトゥブッディーン・ムハンマドの娘。本名はサフヴァトゥッディーン صفوة الدين Safwat al-Din 。ゲイハトゥが即位した後、1292年に故郷のケルマーン州に帰還し、叔母で第4代当主クトルグ・テルケン・ハトゥンを追放した弟のジャラールッディーン・ソユルガトミシュを捕らえて処刑し、勅許を得てケルマーン・カラヒタイ朝の第7代当主となった。
- ↑ ケレイト部族出身。フレグの筆頭正妃(大ハトゥン)ドクズ・ハトゥンの兄弟サリジャの娘で、オン・ハンの曾孫にあたる。アルグンの寡婦として受け継ぐ。
- ↑ コンギラト首長家当主デイ・セチェンの遠縁アバタイ・ノヤン(ヒンドゥスターン・カシュミール鎮守府軍中軍千戸長)の息子ウトマンの娘。アバカの正妃ブルガン・ハトゥンと同名異人。アルグンの死後はゲイハトゥが受継ぎ、ゲイハトゥの三男チン・プーラードを産む。
- ↑ 『集史』では四女としてドンデイ・ハトゥンにも娘が居たらしい記述があるが、名前は出ていない。『五族譜』のゲイハトゥの系図では上記の三人の娘の他にクトルグ・マリクという娘の名前が載っている。
参考文献[編集]
- フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修,創元社,2009年5月)