チャーオ
チャーオとは、イル・ハン国の第5代君主・ガイハトゥにより1294年9月に発行された紙幣である。結果的に経済が大混乱してわずか2か月でこの紙幣は廃止となった[1]。
概要[編集]
発行の理由[編集]
1291年に即位したガイハトゥは乱費と放蕩を繰り返す暗君で、そのためイル・ハン国の財政は悪化していた[1]。また宰相のサドルッディーン・ザンジャーニも乱費を繰り返していたという[1]。さらに疫病によりモンゴル人が飼っていた羊が全滅するなど、社会的にも不安が高まっていた[1]。
このような中でガイハトゥは経済再建を目的にして紙幣の発行を決断する。実はモンゴル帝国の宗主国として君臨していた元のフビライ(ガイハトゥの大伯父にあたる)が元国内で交鈔という紙幣を発行しており、ガイハトゥはこれを真似ようとしたのである[1]。ガイハトゥはフビライの派遣した使者と相談して紙幣の発行を具体化し、反対する貴族の意見を無視して紙幣の発行に至ったという[1]。
チャーオ[編集]
チャーオとは、フビライが発行した交鈔(こうしょう)という呼称にちなんで、チャーオと呼ばれるようになったという[1]。紙幣には漢字でイスラム教の信条、ガイハトゥの名前、紙幣の価値、そして「世界の帝王が693年に、この縁起の良いチャーオを発行された。何人であれ、これを損なった者は妻子もろとも死刑に処し、財産を没収する」という文章があったという[1]。イル・ハン国の各地に印蔵庫が設置され、硬貨の使用は禁止された[1]。中国以外に最初の木版印刷の事例であり[1]、西アジア初の紙幣でもある。
廃止[編集]
この紙幣はもともと流通していた硬貨など通貨の使用が禁止されたことが原因で、逆に通貨としての信用を失うことになった[1]。そして急速に交易が停滞して経済が大混乱し、さすがのガイハトゥもサドルッディーン・ザンジャーニも発行からわずか2か月で廃止を命じざるを得なくなったという[1]。
この紙幣発行は結果的にガイハトゥの権威を失墜させた。もともと失政続きであったガイハトゥに対する不満は一層高まり、結局翌1295年3月26日に従弟のバイドゥに反乱を起こされたガイハトゥは捕縛されて絞殺されることになった[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修,創元社,2009年5月)