バイドゥ
バイドゥ(? - 1295年10月4日)は、イル・ハン国の第6代君主(在位:1295年)[1]。
生涯[編集]
父は初代君主のフラグの5男・タラガイ[1]。生母は不明だが、養母は第2代君主のアバカの妃のマリア・デスピナだったという。1291年5月10日にアルグンが亡くなると、ガイハトゥやムハンマド・ガザンと共に後継者候補の一人に推されたが、クリルタイでアミール(軍の司令官)の支持を受け、さらにアルグンの正妃であったウルクをはじめとする王家の女性の支持を得たガイハトゥが後継者に選ばれて君主にはなれなかった[2]。
しかしそのガイハトゥが失政を繰り返して周囲の支持を失い、バイドゥは1295年の春にガイハトゥから召使に殴られるという侮辱を与えられたのを恨んで反乱を起こした[1]。この反乱は成功してガイハトゥを捕らえると、彼を弓の弦で絞殺した上で新君主として即位した[1]。
しかしもう一人の候補者だったムハンマド・ガザンはバイドゥの即位を認めずに反乱を起こした。ガザンはイスラム教徒に改宗することで周囲の支持を得ていくと、バイドゥ軍を各地で破ってバイドゥを捕縛した[3]。そして1295年10月4日にダブリーズ郊外の庭園でガザンの命令により処刑された[3]。
なお、バイドゥは即位するにあたり、中国を支配していた元王朝から承認を求めた同王朝では最後の君主であり、バイドゥ時代の硬貨は元朝の皇帝の名前が刻まれた最後の硬貨となった[3]。
宗室[編集]
『集史』には「ゲイハトゥ紀」はあるが、バイドゥの本紀は設けられていない。しかし、イルハン朝時代後期、『集史』の編纂後に著されたムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1333年)などでは「バイドゥ・ハン」と呼ばれ、8ヶ月間君主位に即いたことが書かれている。以下は『集史』フレグ・ハン紀・五男タラガイ条および『五族譜』、『高貴系譜』による。
父母[編集]
- 父 タラガイ
- 母 カラクチン
- 姉妹 イシル
后妃[編集]
- シャー・アラム
- ドラダイ・イデチの娘 - チャガン・タタル部族出身
男子[編集]
- キプチャク - 母 シャー・アラム。父バイドゥとともに処刑される
- アリー - ムーサーの父
- ムハンマド - 母 トラダイ・イデチの娘
脚注[編集]
参考文献[編集]
- フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修,創元社,2009年5月)