ウィキペディア3大文学

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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ウィキペディア3大文学(ウィキペディアさんだいぶんがく)とは、読み物として優れているウィキペディア日本語版の記事を指す言葉。

概要[編集]

一般的に地方病 (日本住血吸虫症)」、「八甲田雪中行軍遭難事件」、「三毛別羆事件の3記事を指すことが多い[1][2][3]

名称や定義は明確に定まっておらず、日本三大Wikipedia文学[1]、日本Wikipedia三大文学、日本語wikipedia三大文学[3]などとも呼ばれる。

「地方病」のみがウィキペディアにおいて「秀逸な記事」に認定されている。残りの2つは「良質な記事」にすら認定されていない。出典明示などウィキペディアのルールに則っているかどうかよりも、分量が多く、読み物として面白いかどうかが「ウィキペディア文学」の評価基準になっていると考えられる。

地方病 (日本住血吸虫症)[編集]

Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが地方病 (日本住血吸虫症)の項目をおカタく解説しています。

ウィキペディア編集者であるさかおりが2010年9月15日に元々のリダイレクトだった記事を新規に書き起こしたもので、「ウィキペディアの多くの記事の中でもものすごく優秀な記事」を表す秀逸な記事に選定されたほか、2017年12月には毎日新聞山梨県版(地方版)で紙面を割いて同氏のインタビューが掲載されている。

毎日新聞インタビューによれば、執筆を開始するに至った動機として「wp:ja:Wikipedia:執筆依頼に『ミヤイリガイ』(編注:病原寄生虫中間宿主)があったこと」で、この寄生虫関連病がさかおりの居住している山梨県甲府市で100年以上に及ぶ医療闘争の歴史があったことを知って衝撃を受け、「なぜ地元民である自分が知らなかったのか」と愕然としたという。

そのことを契機に、県立図書館に通って資料を収集する傍ら、医師の観点からの歴史を今に伝える医院も尋ね、内容に関する記述を増やし記事の質を高めた。記事中に使用されている画像についても、さかおりが自ら現地に足を運んで撮影した画像ばかりだという。

毎日新聞の「地方病の歴史について(山梨県内でも)あまり知られていないのはなぜか」という質問に対してさかおりは「(想像だが)地方病の撲滅に必死であったのは高度成長期であり、当時(地方病に罹患した当人ら)の人々にとっては)恥ずべきことであり隠したのではないか」と述べた上で、「官民が相互に協力し、ひとつの病を駆逐した誇るべき歴史である」との思いを口にし、またその事実により「より多くの人々に歴史的事実を知って貰いたい」という思いも執筆原動力のひとつとなったことを語っている。

八甲田雪中行軍遭難事件[編集]

Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが八甲田雪中行軍遭難事件の項目をおカタく解説しています。

2006年に初めて執筆された1.6KBの記事から年次に多数の執筆者が関わって成長した記事。初版では、「八甲田山雪中行軍遭難事件サイト」[4]を参考資料としてあげ、新田次郎が著した「八甲田山死の彷徨」を関連書籍として記載していた(これは1977年の日本映画「八甲田山」の原作小説でもある)。

内容は1902年大日本帝国陸軍青森県八甲田山に訓練で登山した際に「雪山の詳しい状況や過ごし方について無知なまま、ほとんど全員が軽装で挑んだ結果として」参加210名中199名が死亡、ほぼ全滅という遭難死者を出した大事件を解説した記事である。なお、生き残ったのは元々東北出身で雪山登山、山中防寒について多少なりと土地の知恵を知っていた者ばかりで、無知者は例外なくほぼ全員が凍死した。

内容に大幅な加筆が行われ始めたのが立項から3か月を経た2006年12月以降で、なんとわずか1か月で50版以上、22KBに及ぶ加筆が為されている。…が。この間、参考資料を提示した執筆者は誰一人として居ない。それでいいのかウィキペディア。出典至上主義だっただろ、君ら。まあ、この当時は出典より内容増加優先なのだが。

2007年1月以降は再び小康状態に入り、これは2010年頃まで1編集の平均が200~300バイト程度の緩やかな内容増加が続く。

動きが急に増えるのが2012年以降で、2012年2月から同一編集者による1KB~4KBの編集増加が連続的に続き、2ヶ月後の2012年4月には51KBに達した。この頃になると参考文献が急速に増加し、特定の執筆者が精力的に当事件について図書館に通って関連資料を調べていることが伺える。同時に、ノートページの議論も活発になったが、ここで初めて「それまでの記事内容の多くで真実として用いられている新田次郎の小説が『多くの創作(事実でない嘘)を非常に多く含むこと』が指摘」され、記事内容の大改訂に至っている。

なお、同様の「創作小説や物語での描写と資料から分かる事実がごちゃまぜになっている」という指摘は2015年にも行われており、2015年9月中の改訂および記述増加により60KBを超え、同年10月には75KBを突破した。当該記事の最大容量はこの時点であり、以後は内容の信頼性検証フェーズが主に続き、自費出版本からの記述、引用や冗長な解説の除去などが為され、2018年1月25日時点の最新版では72.7KBに落ち着いている。

なお、現時点では「多数の資料を用いて事件の原因から現在までの影響を詳細に解説した記事」であり、読み物として読み応えがあることには疑いようもないが、ウィキペディア自身が定める三大方針に照らせば検証可能性独自研究に関して眉をひそめる部分が未だ多く要改訂部分として記事中に点在しており、秀逸な記事としての(2018年現在の徹底的に厳しくなった)選考を通らないであろう、と考えられる。2020年11月21日に、初心者ウィキペディアンの利用者:きとならにより、記事選考が提出されたが、徹底的に反対され早期終了された。

三毛別羆事件[編集]

Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが三毛別羆事件の項目をおカタく解説しています。

1915年12月に北海道苫小牧市の三毛別(さんけべつ)で発生した羆(ヒグマ)による食人被害を解説した記事である。秀逸な記事に選考されていない理由として推測可能なのは、当該記事の出典欄を見ると分かるのだが、「実質、ノンフィクション作家である木村盛武の著作を主原資料に求めており、内容の多くに木村の視点、考察のみが反映され出典多様性に欠ける(wp:ja:Wikipedia:中立的な観点違反)」「内容の過半は恐らくほとんど全てが真実であろうこと疑いはないものの、匿名執筆者の推測、憶測記述などが入り混じり、『どの部分が出典から記述した真実なのかが判然としない状態』に陥ってしまっている(wp:ja:Wikipedia:検証可能性違反)」などの点ではなかろうか、と考えられる。

また、注釈欄も(書かれた当時にはそれで問題がなかったのだろうが)出典不明の「匿名執筆者の個人視点や個人推測、与太話の解説に終始」しており、2018年現在の基準では注釈8点のうち半数の4点は「無出典記述として(出典が見つかるまでの間、出典不明で信頼性が怪しい曖昧な記述を読者の目に触れさせないために)抹消除去が妥当」である。

2020年11月21日に、初心者ウィキペディアンの利用者:きとならにより、記事選考が提出されたが、徹底的に反対され早期終了された。

その他のウィキペディア文学とされる記事[編集]

岡田更生館事件[編集]

Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが岡田更生館事件の項目をおカタく解説しています。

1946年から1950年まで存在した岡山県の浮浪者収容施設・県立岡田更生館で発生した監禁、暴行傷害、殺人事件を解説した記事である。但し、読んでみればわかるが、三毛別羆事件以上に一人(大森実毎日新聞の記者で岡田更生館に潜入しスクープを出した)の著作に頼っており、また所々に文学的な部分が強く残っているため、ウィキペディアの記事としての完成度は地方病以外の「三大文学」の2項目よりも劣っている。2019年に松本澪というユーザーによって立項され、その後も同氏によって微修正が続けられている。「ウィキペディア文学」というよりは、ただの「文学作品」と化してしまっていた。

2020年1月2日に「ROOTSY」というツイッタラーによって「三毛別羆事件」「地方病」とともに言及され[5]、一躍「ウィキペディア文学」の代表的な作品として称されるに至ったが、百科事典の記事としては完成度が低いことから、多数のTwitterで活動するウィキペディアンから苦言を呈されている[6]

なお、秀逸な記事の選考にも出されたが[7]、満場一致で否決され、早期却下となっている。

脚注[編集]

関連項目[編集]