高木盛兼
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高木 盛兼 たかぎ もりかね | |||||||||||||||||||||
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高木 盛兼(たかぎ もりかね、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏、後に堀尾氏の家臣。美濃高須城主[1]。
略歴[編集]
豊臣秀吉に仕えて九州征伐や小田原征伐に従軍し、天正20年(1592年)に美濃海西郡・石津郡において1万石を与えられ、高須城主となった[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して自らの居城を守備する。東軍に属した徳永寿昌から降伏するように勧告を受け、武将としての体裁を保つために空砲による形だけの合戦を行なった後に降伏すると応じ、8月19日に徳永により高須城が攻撃されるが、この際に徳永は約束に反して実弾をもって攻撃してきたので驚いた盛兼は城を放棄して逃走し、船で同族の高木正家が守る津屋城に逃れるが、この城も東軍の攻撃を受けて落城し、盛兼は正家と共に西軍の大垣城に逃れた[1]。
戦後は西軍に属したとして改易。出雲松江藩主の堀尾吉晴に仕えて、松江で死去した[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]